探検


野々村元県議の今後を考える11

1名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2025/07/28(月) 16:27:29.78ID:RioVyMEA0
野々村元県議の今後を考える10
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野々村元県議の今後を考える9
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野々村元県議の今後を考える8
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野々村元県議の今後を考える7
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兵庫県議 野々村 政務費不正で泣き乱 野々村元県議の今後を考える6
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野々村元県議の今後を考える5
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野々村元県議の今後を考える4
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野々村元県議の今後を考える3
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野々村元県議の今後を考える2
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野々村元県議の今後を考える
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2025/08/21(木) 20:28:01.84ID:Atlon48U0
日本はたった25人の軍人しかいなかったが、柴五郎中佐が率いて抜群の働きをした。
日本は各国から地理的に最も近いという理由で本国から応援部隊を出すよう要請されたが、野心があると思われるのを避けるため応じなかった。
しかし、再三イギリスなどから要請され、日本軍の活躍で連合軍は天津を占領することができた。
その後、連合軍は日本軍を主力として北京に進軍、8月14日に北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵を駆逐し、
公使館区域の外交官や居留民を救出することに成功した。その後、連合軍は国ごとに分かれて北京を占領した。
ロシアは義和団の乱が支那から満州にまで及んだときに増派してついには全満州を占領してしまった。
しかし、清国はロシアを満州から追い払う努力は一切しなかった
(満州からロシアの勢力を追い払ったのはその後の日露戦争に勝利する日本である)。
もし日本が日露戦争で勝利しなかったら、(宣統帝溥儀の家庭教師だったレジナルド・ジョンストンが言うように)
遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、ロシアの一部となっていたことはまったく疑う余地のないことだった

1900年4月には北京へ入り、列国の外交官らが襲われ、4000人が包囲され脱出出来なくなった。
列国は日本軍を中心に8ヵ国連合軍を結成し、救出。
日本軍は勇敢に闘い、かつ、国際法を守り、捕虜や民間人を手厚く保護した。
他国の軍隊は、中国人に対して略奪や放火、殺人を繰り返したが日本軍は皆無。
北京市長はロシア区域の残虐行為にたまりかね、英国公使にロシア地区を日本の管轄に変えて欲しいと訴えたほどだった。

満州にまで飛び火し、ロシア人が殺傷される事件も起きた。ロシアはそれを口実に満州占領へと乗り出した。
ロシア軍は怒涛のように満州に流れ込むと、街を焼き、略奪し、虐殺し、市民の生活を脅かした。
このとき何よりも怖いのはロシア兵はもとより、清軍の敗残兵だった。
兵士が市民から略奪するのは中国伝統の戦争文化とも呼ぶべき慣習で、兵隊とは市民に乱暴狼藉をはたらくものということが常識となっていた。

柴五郎は、北京各国の領事館区の2ヵ月におよぶ篭城中、
攻防戦の指揮官として各国から信用を得て、北京陥落後は軍事衛門長官(駐留軍司令官)として治安を担当

略奪を硬く禁じた秋山好古大佐。
「本国に持ち帰りを許可するものは、戦闘により入手した敵の武器・銃・刀・槍・弓のみである。
これは子孫に武勇を伝える戦争の記念品であるからで、他のものは一切禁止する。」
2025/08/21(木) 21:01:46.00ID:Atlon48U0
6月4日、北京−天津間の鉄道が、義和団によって破壊された。北京の外交団は万一の場合の脱出路を奪われた形となった

まずは各国の人物、能力を見極めようという腹だった。
さらに東洋人がいきなり議論をリードしては欧米人の反発を招くということも十分に心得ていた。
柴は会議の流れを掴むと、目立たない形で、自分の計画に合意見については
「セ・シ・ボン(結構ですな)」と賛意を示し、また防御計画の要については、ちょっとヒントを与えると、
別の列席者がさも自分の発案であるかのように提案する、という形で、巧みに議論を誘導して、自分の案に近い結論に持っていった

日本軍が外国軍隊と共に戦ったのはこれが最初であった

当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城をつうじてそれが変わった

最も多額の賠償金を要求したのは、籠城者救出を妨害しようとした上、
救出には日本の4割しか出兵しなかったロシア(29%。1億8千万円)であった。
次は、北京救出に一兵も参加しなかったドイツ(20%。1億3千万円)、第3位は日本の50分の1の出兵しか行わなかったフランス26%。1位6百万円)、
第4位はイギリス31%。6千5百万円)。
我が国は第5位(7・7%。5千万円)の要求で甘んじた。

北京・海兵間の自由交通を維持」するため、各国が郎房、天津、塘沽、芦台、山海関など12ヵ所の地点を占領する権利を承認した。

もしロシアが、この満洲還付協約を誠実に履行していたら日露戦争は起らず、
その後の我が国の満洲進出も韓国併合もあり得なかっただろう。
ロシアがいったん占領した土地を平和的に所有者に返した例は、帝政ロシア、ソ連邦を通じて一度も存在しない。
ロシアが対韓侵略の意図を露骨に表すようになったのもこの頃である。
まずロシアは、森林保護を名として韓国の竜岩浦(鴨緑江河口)を軍事占領し、続いて7月(1903年)には兵力を以て韓国を圧迫して
竜岩浦租借契約を結ばせた。ポート・ニコラスとロシア風に改称するなど、竜岩浦占領の既成事実化を着々と進めた

蔵相ウィッテは回想記
日本人が極度に我々に反抗するようになったのは極めて自然の成行きと云はねばならぬ
支那は全然ロシアを信用しなくなった。日本も同じであった。
2025/08/21(木) 22:12:46.61ID:Atlon48U0
英国の地理学者兼地図製作者、アーロン・アロースミスが1811年に作成した「日本、クリル(千島)列島」。
択捉島以南の北方四島が北海道と同じ青色で日本領とされている(英国立公文書館所蔵

地理学者ジェームズ・ワイルドが1840年作成の「日本、クリル(千島)列島」地図。
得撫島までが北海道と同じ赤色で描かれ、北方四島と得撫島までが日本領とされている(英国立公文書館所蔵

英外務省の公式文書として保管。覇権国として「世界標準」を
設定していた大英帝国が、北方四島を日本領と定めた1855年の日露和親条約以前に日本領と認定
いずれの地図にも、北方四島近くに「Providence」との表記があり、プロビデンス号で1796年に北海道に上陸し、
翌年、北海道西岸を測量した英海軍士官、ウィリアム・ブロートンの探検結果を反映したとみられる。

ただ両地図には、
択捉島に「or Itrup of Russians(またはロシア人のエトロフ島)」、
ウルップ島に「or Urup of Russians(またはロシア人のウルップ島)」
と併記し、露側の主張に一定の配慮を示した形跡もある

当時のロシアも同地図を世界標準と認識していた可能性がある。
アロースミスの地図を日本は04(文化元)年に長崎に来航した露通商使節レザノフから入手。
天文方(天文地理学者)だった高橋景保が1807(文化4)年に世界地図作製の幕命を受け、
アロースミスの世界地図を原図として16(文化13)年に両半球世界図「新訂万国全図」を完成させた。
2025/08/21(木) 22:27:38.00ID:Atlon48U0
1937年7月7日、盧溝橋事件。7月11日20:00の『松井-秦徳純・停戦協定』で終了しています。
盧溝橋事件があったからといって、上海共同租界を攻撃していいということにはなりません。
上海共同租界は日本領ではありませんし、日本の専管租界でも日本の租借地でもありませんでした。
上海共同租界は国際的な共同租界であり、そのなかに日本人が住み、比較的、日本人が多く住んでいた日本人町もあったということです。
日本人町には日本人だけでなく欧米人も中国人も住んでいました。
上海共同租界の国会にあたる参事会14人の構成は、イギリス人5人、アメリカ人2人、日本人2人、中国人5人でした。

8月13日、第二次上海事変。
蒋介石軍)3万人が「1932年の上海休戦協定」に違反して協定線内に侵入し、上海共同租界の日本人居留区域を包囲し、
条約による合法居留の日本人町に対して武力テロ攻撃をしてきました。

中国には条約で欧米人・欧米10ヵ国軍もいたのに、中国は、同じく条約でいた日本人・日本軍だけを攻撃してきました。
日本側は中国側に何度も和平を打診していたのですが、
アメリカが中国(蒋介石)に資金・武器を支援し続けていたので、蒋介石は日本からの和平提案を拒否し続けました。
アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで日本軍が合法的に仏印に進駐して援蒋ルートを遮断
するとアメリカは、合法側・被害者側の日本に対しては石油禁輸などの経済制裁を仕掛け、
中国大陸から日本だけ出て行けと、不当な事を言っていました。
日本は石油などの資源がないと国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。

蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました
2025/08/21(木) 22:57:23.80ID:Atlon48U0
日本領事が「1932年の上海休戦協定」の締約国である米英仏伊などで組織する
協定共同委員会を招集し、蒋介石軍の撤退を要求する共同抗議、
および何らかの制裁措置を講ずるよう提案を行ないましたが英米仏伊は、まったく取り上げようとしませんでした。

蒋介石軍に注意を喚起するどころか、イギリス人警官などはブロードウェイ・マンションに展望台を設置し蒋介石軍に日本軍陣地までの着弾距離を教えたり、
蒋介石軍に電話で戦況を伝えたり、貯蔵されている物資を蒋介石軍に提供するという、上海共同租界の治安維持義務に反する行為をしました。

蒋介石軍の爆撃機が上海共同租界内を無差別爆撃して日本人だけでなく、欧米人や中国人を含む3000人もの民間人が犠牲になっているにも関わらず、
米英伊軍は蒋介石軍と戦おうとはせず、日本軍だけが蒋介石軍と戦い、日本軍の戦闘機も出撃して戦いました。
英米伊軍は上海共同租界内の治安を維持する立場にありながら、
その任務を怠り、自国民にも多くの犠牲者を出し、多くの建物にも甚大な被害を出してしまったことは、
英米伊の自国民に対する背信行為でもあり、上海共同租界内に住んでいた多くの民間人に対する背信行為です

蒋介石軍が、あきらかに不法な侵略戦争を仕掛けてきたのだから、その蒋介石に資金・武器支援するアメリカの行為も、
当時の日本から見て主観的に、「蒋介石の不法行為を支援するアメリカの行為は蒋介石軍と一体となった後方支援の不法行為であるし、
合法的に自衛している日本を経済制裁して合法行為の阻害をする行為も不法行為である。」
と、みなして問題ありません。
日本から見れば当時のアメリカこそ「テロ支援国家」
2025/08/21(木) 23:56:32.33ID:Atlon48U0
日本はあくまでも軍政目標を狙った攻撃であり、市民を狙った攻撃ではない。
一方的に日本を断罪した東京裁判ですら、重慶爆撃は起訴対象には入っていないのである。
ちなみに、訴追されているのは、南京・広東・漢口への攻撃に関してのみ。
そして8件ほどの事件が証拠として提出されただけで、重慶は対象外であった。

超高空から軍需工場等を狙った爆撃は命中精度が低い。
平均して5%くらいの命中率だったようである。
そこで軍事施設・工場などにこだわらず、都市破壊も行うように示唆するが、
国際法違反になると考えて、従おうとしなかったという
そして更迭され、ルメイが兵団長となったのである

重慶を根拠地とした爆撃機による中国内の日本軍基地
12月18日漢口に対して3時間に亘る十数回の波状攻撃でその結果、漢口は灰燼に帰した
この無差別攻撃こそは、住民を「結果的に巻き込んだ」いわゆる無差別攻撃から、
住民を根こそぎに殺害する「民間人をターゲットとした爆撃」への転換点であった。
そして、この「実験」の大成功に味を占めた米軍は、これを日本においてより大規模に実行することを考えたのである。
2025/08/22(金) 11:28:14.08ID:4ljt9F1u0
てんしょたい

「篆書体を日本のパスポートの文字として使うのは適切なのか?
明らかに秦代の小篆なのに、日本独自の文字だと主張するのか?」

下にアルファベットもありまして…わかりますか?別に自分の国の文字だと主張していないんです。
素晴らしい他国の文化を取り入れ、
進化発展させることが好きな民族ですので、敬意を持って使用させていただいております。

中華人民共和国は文化大革命で「四旧」を破壊し、篆書を含む古典文化を自ら否定した。
もはや正統な継承者ではなく、文化を断絶させた政権に過ぎない。

秦一族は
賀茂氏(鴨氏)
松尾氏(松尾大社)
深草(秦
2025/08/22(金) 13:53:47.73ID:4ljt9F1u0
4世紀の後半頃、現在のアフガニスタン東部のクンドゥース地方ヒンドゥークシュ山脈の北麓の遊牧民族で、
人種的にはイラン系らしいが、王族はトルコ系とも言われる。
次第に勢力を伸ばしバクトリアに進出しイランのササン朝ペルシアに侵攻し、圧迫した。
北インドではグプタ朝を圧迫し、滅亡した
6世紀の中頃、東方のモンゴル高原から勢力を伸ばし中央アジアに進出してきたトルコ系の突厥と、
西方のササン朝ペルシアによって挟撃され、滅亡
2025/08/22(金) 15:04:24.56ID:4ljt9F1u0
1944年、ソ連は新疆ウイグル自治区で、東チュルキスタン共和国を設立し、
新疆を第二の外モンゴルに変えようとした。 ソ連将校の指揮の下、漢族を虐殺
2025/08/22(金) 16:48:09.68ID:4ljt9F1u0
独ソ戦勃発後、スターリンは中国に物資と武器を支援し、中国が日本軍を防ぐことで、自国が二正面戦争に巻き込まれるのを防ごうとしていました
盧溝橋事件が勃発すると、スターリンは戦術を変更し、中国が対日戦に忙殺されて対外的な配慮ができないことを利用して、
ウラジオストク、ウスリー、ハバロフスク、ブラゴヴェシチェンスクなどで中国原住民の組織的な虐殺を行いました。

中国人は刑務所に行き、ほとんどが強制収容所で拷問を受けて殺され、少数は完全に殺されました。

2009年12月、ウラジオストク近郊で、APEC2012のための道路整備作業員が1万人以上の大量の死体を発見しました。
2010年5月、ロシア側は再びウラジオストク近郊を発掘調査し、合計約480人の遺体を発掘しました。
彼らは例外なく全員ひざまずいて後頭部に銃を撃ちその弾痕はすべて1930年代のソ連の軍備を示すものでした。
2025/08/22(金) 17:20:09.52ID:4ljt9F1u0
満州事変に関する写真集の刊行はそれほど多くはなく、昭和九年までに刊行された書籍
では十四点が確認できるだけなのだが、そのうちの四割以上の出版物がGHQによって焚書処分されている
GHQがどのような当時の記録を戦後の日本人に教えたくなかったが見えて来ると思う。

満州事変にかかわった本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らが他界した後
(1956年)満鉄爆破は支那軍ではなく関東軍の自作自演であるという当時東大生であった秦郁彦が書いた
2025/08/22(金) 17:58:36.51ID:4ljt9F1u0
過去二十年以上にわたって、支那はその国民に災厄をもたらしたところの一の革命時代を経過して来た。
数千万の人民が共殺的内乱、暴政、匪賊、飢饉ならびに洪水のために、
その生命を失ってきた。数千万の人民は惨苦と絶望の底に投ぜられた。
共産軍は南京政府の統制下にある領域よりもさらに広大な地域にわたって荒れ狂い、支那全土は今や全く混乱の状態である

久しく支那は独立国としての国際的義務を履行しておらず、日本は支那の最も近き隣国として、この点における最大の被害者であった。

旧属領に対して、支那は今や何の統制権も有していない。たとえばトルキスタンは支那本土との接触から完全に切り離され、
外蒙古は数年前ソヴィエト連邦の一部となった。ただ満洲のみが、昨年まで支那の一部として残った。
それも有名無実の支那主権の下に於いて、若干の接触と連帯とを保っていたという程度に過ぎない。

今日の南京政府は十五省のうち四省にも足らざる省の政務を統括しているに過ぎない

問題の核心、現下最大の問題は支那の無政府状態という点にあることを発見されるであろう。
しかしながらこの点に関して諸卿は何ら対策策を提議されておらぬ。満州問題の如きは単に問題の一局面、否むしろ問題の一結果に過ぎない。
満州問題の解決には、かほどまでの熱心を持たれるにもかかわらず、紛議全体の根底に横たわるところの大問題については、
諸卿はこれを全く看過しておられるのである。いったいこの点は如何様に処理される御意向であるか?

我々の希望は、我々の力の及ぶ限り支那を援助せんとするにある。この点に於いて我々は真摯である。我々の好むと否とにかかわらず、これは我々が負うべき義務である

満洲国の自立を援けんとしつつある現在の我々の努力は、やがては支那の援助者たらんとする日本の願望と義務を実現する契機となり、
これによって東亜全土を通じ平和の確立に成功するに至るべきことを余は確信するものである。
2025/08/22(金) 19:53:09.92ID:4ljt9F1u0
外務省Q6は昔「#南京大虐殺 に対して」だったのを日本政府が大虐殺を認めてると誤解を呼ぶので、
数年前わざわざ「#南京事件 に対して」に訂正、少なくとも日本政府は南京大虐殺を認めてない
2025/08/22(金) 22:01:43.08ID:4ljt9F1u0
アメリカで唱えたスローガンに“パール・ハーバーを忘れるな”と共に“バターン死の行進を忘れるな”があったという
アメリカ人約一万五百人、フィリピン人七万四千八百人)
アメリカ人千二百人、フィリピン人一万六千人を死

かれこれ三ヵ月半も、バタアンの山中にひそんでいたため
捕虜がもともとマラリアなどに罹っていたことが最大の要因であった。
捕虜は水筒だけを持って歩いたが、日本軍兵士は60kg以上の荷物を持って一緒に歩いた。
できればトラックで輸送すべきであったろう。
しかし貧弱な装備の日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった

所長通達は決まって、「バターン半島で日本軍は、×××××のことをしたが、われわれはそういうやり方はしない」という前置きではじまったが
新手の虐待法であったものと考えられる

米軍が標高二千三百二十メートルの高所で武装解除を行った理由の一つは、カバヤンの急坂を登らせて疲れさせることにあった。
そしてもう一つの理由はボントック道55K地点からバギオまで六十キロになることにあった。
その間を行進させて、「バターン死の行進」のお返しをすることにあったのだ。
(日本軍がバターンで、水攻めを行ったという記録は残っていない)
帽子や水筒を取り上げられ
熱帯でも高山になると、夜は冷えるが、毛布は没収されていたので、そのまま眠るほかなかった。
「体を横にするな。体温を地面に奪われて死んでしまうぞ!」と誰かが大声で注意してくれたので、座ったまま膝をかかえて眠った。

マッカーサーの命により、既に二万人の捕虜墓地を用意していた米軍側にとって、予想外に少ない数であったと推定される

キャンプの一郭に千人程の朝鮮人がおり、特別待遇を受けていたが、彼らは時々新しい米兵服に身をかため柵外へ出て行った
なお朝鮮人でも正規の日本兵として階級を与えられていた人がおり、そういう人達は収容所でも日本兵と同じ扱いを受けていたようだ
我々のキャンプにいた朝鮮人は準兵士(使役兵)で階級を与えられなかった人達だったのかもしれない。
彼らは毎朝、点呼の後で、大声で歌を歌っていたが、それが「朝鮮独立の歌」であったことも、後になって知った
2025/08/22(金) 22:36:49.83ID:4ljt9F1u0
九月二十七日にマッカーサーと昭和天皇の会見が行われ、十月十六日に次のようなマッカーサー声明が発表された。
きょう日本全国にわたって、日本軍は復員を完了し、もはや軍隊としては存在しなくなった
未だ比島からは一兵も復員させていない時期に、復員の完了をうたっているのである。
なぜマッカーサーがそんな大嘘をつく必要があったのかと言えば、国際社会を欺くためであったと私は思う。
なかんずく国際赤十字社などの目をくらますためであったと思う。
カンルバン収容所で捕虜虐殺を進行させつつあったマッカーサーにとって、国際赤十字社などの目が最も気になった

二万人墓地の早期完成を督励しつづけた

日本人捕虜)の墓と分かってからも、「さすがはアメリカだ。元敵兵のためにこんな立派な墓地を造ってくれて」という気持ちが湧いたのも偽らない事実であった。
 だが、その数がかっきり二万であると聞いたとたんに、そういう感謝めいた気持ちは消し飛んでしまった。
これは意図して計画的に造られた墓地だという思いを強く持ったのである

平均五年間シベリア抑留の抑留者総数約五十六万人、死亡者数は約六万人

投降者の数がフィリピンで二十万人
二万柱を埋葬するのに二カ月しかかからなかった。重労働と飢餓作戦がいかに苛烈なものであったかを物語る数字と言えよう。
2025/08/23(土) 00:02:39.09ID:EIkG8O8s0
『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判に証拠書類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかったであろう。

満洲事変後のアメリカ・イギリスの対日政策が根本から間違っているということを、動かしがたい証拠を以って言及しているのである。
この書が決定的に主張していることを一言でいえば、「満洲は絶対シナではない」という点である。

ジョンストンは次のように書いている。
二十世紀初頭の満洲は実質的に、完全にロシアに占領されていた。清朝はロシアを追い払うために何もしなかった
日本はロシアの植民地になりかけていた満洲を助けた。そこへ清朝から皇帝が帰ってきた。それを日本が助けて、一体何が悪いかと
ジョンストンのこの本には、溥儀が喜んで序文を寄せている。
溥儀は東京裁判で、序文は自分が書いたものではないと供述した。

武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。
しかし日本政府は何ら有効な対策を打とうとせず、「嫌なら帰って来ればいい」という態度だったのです
警察行動である満州事変が勃発したものです。
2025/08/23(土) 00:39:45.54ID:EIkG8O8s0
溥儀が1924年紫禁城を追われ天津の日本公使館に逃げ込んできたのは家庭教師であった著者の手続きによるものであった。 
中国は日本が溥儀を拉致して満州国という傀儡国家を作る謀略と国内外に喧伝した
対華21ヵ条要求は清国との国際条約の順守を中華民国に求めたものであったが、条約締結と同時に破棄したのは袁世凱である。
この条約を帝国主義として日本を非難したのは米国である。中国への領土的野心のなかった日本にそれがありと糾弾したのは欧米である。
欧米こそが中国の領土を分割、統治していったのである。

中共が批判するように,「日本政府と関東軍が計画的に主導した傀儡政権で,満洲の民衆に無関係
な政府であり,溥儀はそれを利用した売国奴である。」ということはない。
 中国内の状況(6章〜)は,1911年以降混乱に混乱を重ね,共和国(中華民国)政体による統治
は多くの国民にとって失望の極みであり,力のある安定した政権(君主制復活も含む)を求める声が多かった(16章)
2025/08/23(土) 01:10:02.46ID:EIkG8O8s0
諸勢力が分裂し、一体感の欠如の原因は、シナ国民が国家を基礎とは考えず、
家族や地方を基礎として考える傾向にあることを挙げている。
この混乱の中、1922年7 月、張作霖は満洲の独立を宣言した。

条約を一方的に破棄する革命外交

満洲を、漢民族が多数民族というだけでシナ本土の一部とする委員会の主張は、
まさに、漢民族による民族侵略( 現在のウイグル、チベットと同じ) を認めたことになる。

調査団が置かれた困難と「報告書」が持つ限界が告白されている。
「問題の複雑性」の件で報告書はこう述べている。
問題は極度に複雑だから、一切の事実とその歴史的背景について十分な知識を持ったものだけが、
この問題に関して決定的な意見を表明する資格があるべきと言うべきである。
この紛争は一国が他の一国を武力によって侵略したと言うような単純な性質のものではなく、
その故に双方の軍事行動の合法性・正当性についても判断することは容易ではない。
原因と結果が錯綜した、収拾がつかない状態にあるとしている。

最も苦悩しているのは、我々ではなく先に近代化を成し遂げた隣国日本であると報告している

シナの混乱を生む原因の一つに教育を挙げていて、彼らの「国」とは家族とそれを支配するリーダーの集団であるとし、
その故に愛国心教育は「概念としての国家」から生まれるのではなく、敵を憎むことで培われていて、彼らが必要以上に外国人を憎むのはそのせいであり、
その故に諸外国の権益は常に危険にさらされていて、暴動も収まらないのだとしている。

松岡洋右の「十字架演説」が実際には満場の喝采を浴び、英国やフランスの代表がわざわざ席を立って松岡に握手を求め、激賞
(三好徹:「松岡洋右 夕日と怒濤 」、西尾幹二:「GHQ 焚書図書開封9」
そもそもその演説(1932年12月8日)は「連盟脱退」のそれではなかった。実際の採決拒否演説は翌年2月24日のことであり、
かつ松岡が自ら「脱退」を口にしたわけではない。彼自身は脱退反対の意見を政府に具申したが容れられず、
後者の訓電に従って連盟総会議場から退出したのであった
2025/08/23(土) 01:17:49.53ID:EIkG8O8s0
名演説によってイギリスから日本の立場を一部容認するような方策が出された。つまり勧告書ではなく議長宣言とすることで強制力をそぎ、
日本の連盟脱退を防ぎ(各国は日本の脱退は望まず)、満州の現状も維持できる方策だった。
しかし松岡がこの妙案を伝えたのが、脱退派の内田康哉(やすや)外相で、内田は西園寺公望(きんもち)元老の曖昧な返事を脱退だと都合よく解釈して、イギリスからの方策を拒否する。
そうなれば連盟は勧告書を出さざるを得ず、勧告書が出れば日本(日本陸軍)は思惑通り国際連盟を脱退できる。
2025/08/23(土) 01:31:55.89ID:EIkG8O8s0
先輩達は後輩の食事代を奢ったりすることも、二十何年間によく見かける。これは恐らく、日本人の代々伝承の文化だろう。
この先輩と後輩との関係は日本だけの文化だ。欧米からの留学生もよく来る。彼らは先輩、後輩と関係なく、自分の分を自分で、支払う。
私は中国出身だから、中国では、部活動の文化がないので、先輩と後輩との食事会もあんまりない。例えば、有っても、上下関係の社会だから、後輩は先輩の為に支払うのだ。
と言っても、中国人の友達とか、同級生とか、時々に集まって、食事会をやるが、奢ったり、奢られたりすることもある。中国人の中にも助け合いも幾らかがある。この場合に、
彼らは、私とあなたとの関係で、お互いの好意を処理する。私もそうだった。
しかし、日本人は違う。私の子供はアメリカで留学している。いろいろな困ったことがあって、先輩の日本人からいろんなことを手伝ってくれている。
先輩にお礼をするけど、大体に、「そんなことをしなくていい、また困った後輩が助けられるように」と言われる。日本人は次に来る人達に、好意をバトンタッチする。中国人のように、私とあなたとの関係で、お互いの好意を処理しない
2025/08/23(土) 13:15:51.58ID:EIkG8O8s0
ベンガル飢饉:1943年にイギリスのチャーチルにより意図的に引き起こされた大飢饉。300万人が餓死した。
@ミャンマーを日本軍が占領したため、イギリスは市場の食糧を強制徴用して食糧難になった。
A日本軍の手に渡ることを恐れ、インフラや輸送船、牛車などを破壊した。
Bオーストラリア等からの食料支援をチャーチルは全て断った。

ガンジス河流域という世界史で有数の穀倉地帯なのに
茶とか麻とか阿片とかの商品作物しか栽培させないようにしてた
イギリスによるインド支配100年間で、約3000万人が意図的な飢饉で餓死した

こいつらが裁かれてないのはただただ現在も覇権を握ってるってだけだから
イギリスがインディアンを虐殺して作った国がアメリカ
イギリスがイヌイットを虐殺して作った国がカナダ
イギリスがアボリジニを虐殺して作った国がオーストラリア
2025/08/23(土) 15:03:58.84ID:EIkG8O8s0
南京大虐殺が既にその根拠が破綻しているのは、
1985年に阿羅健一氏が
東京裁判提出証拠とされた崇善堂の埋葬記録が偽物であることを判明したからだ。
更に、当時の戦時国際法の観点からも、それが犯罪を構成しえない

戦後、石川達三(『生きてゐる兵隊』の作者)は二度ほど読売新聞のインタビューを受け、遅れて南京に入ったため、
虐殺自体は見ていないものの、南京事件について聞いたこと、
その余燼や町なかに死体がゴロゴロ転がっているのを見たことを証言している
2025/08/23(土) 15:10:25.28ID:EIkG8O8s0
抗日戦争当時、紫禁城の文化財は紫禁城には100万点以上が残っていた
ヨーロッパ、アメリカ、日本の博物館に展示されている中国の文化財はすべてひったくられたといつも言われています
失われた数万点の中国文化財のほとんどは、私たち中国人自身が盗んで売ったり、通常のルートで売買されたりしています。
2025/08/23(土) 16:12:42.23ID:EIkG8O8s0
日本軍が到着する直前に蔣介石が逃走したので城内は混乱と無政府状態に陥った。中国兵は命令に反抗し、匪賊と化し、放火や略奪で城内は地獄のようだった。
揚子江付近に避難していた民衆は、日本軍によってようやく解放された。

アメリカの日本語新聞が南京安全区で中国人の集団が日本軍通訳の腕章を偽造し、
日本軍になりすまし、強盗、暴行の悪事の限りを尽くし、総額5万元の荒稼ぎをしていたことを在南京憲兵隊が摘発し、
全員を逮捕したとの同盟通信の配信を報道しています

南京の安全区に逃亡中国兵によって隠された中国軍の武器弾薬が日本軍により摘発されていますが、
戦車を含む武器弾薬がトラック50台分、便衣は2200着分であった記録
2025/08/23(土) 18:00:14.29ID:EIkG8O8s0
要求は14ヵ条で、第5号7ヵ条は希望条項
最終的に中国側に要求したのは約16ヵ条

漢冶萍公司を設立したのは1896年(明治29年)、日清戦争の翌年である。
同年、日本は八幡製鉄を設立したが鉄鉱に乏しい日本は1899年(明治32年)、互いに同量の鉄鉱石輸入と石炭輸出の契約を同公司と結んだ。
義和団事件後、ドイツが日本の権益の妨害を企てたため、
1904年(明治37年)、我国は公司と300万円の借款契約を結び、その担保とされた大冶鉄山は以後60年間は他国に売却しない事を取り決めた。
日露戦争中の厖大な鉄鉱需要はこれによって賄われたのである。
1911年、辛亥革命が起こると、同公司は革命軍に没収されようとしたため、
盛宣懐は200万元で没収を免れようとし、その金額の調達を日本に交渉したので、
日本はその条件として日支合弁を提議して漢冶萍公司日支合弁仮契約が結ばれた。
決して唐突に新たな権益を求めた訳ではなかった

中国側が「21ヵ条」の内容を、はなはだしく歪曲誇張して内外に喧伝したことが、不必要な誤解を招いた

日本の要求とは全く違う事を捏造して列挙していた。
このような虚偽歪曲の宣伝が、さらに問題を悪化させた。

多少とも圧力をかけたことを口実として条約を無効にできるのなら、
世界に現存する条約の大部分は即刻無効となるだろう。
例えば日清戦争後の遼東還付条約は、まさしく三国干渉によるものである
力でドイツに押しつけられたヴェルサイユ条約も、
原爆投下を背景に日本に強要されたポツダム宣言も無効になるはずだ。]

中国の論理の独善性は明白である。
第一、日本は中国の自由意思を束縛したこともなく、4ヵ月にも及ぶ外交交渉の結果成立した条約ではないか。

驚くべきことは、中国が条約調印直後の1915年6月に「懲弁国賊条令」なるものを公布したことだ。
これは日本人に土地を貸した者は国賊として公開裁判なしに死刑にするという峻厳を極めた法令で、勿論、日本人の土地取得得妨害が目的である。
同時に中国は南満洲の官吏に「商租地畝須知」なる秘密の手引書を頒布して、日本人に対する土地商租の妨害を命じた。
このため、日華条約で確定したはずの南満洲における日本人の土地商租権は、条約調印と同時に事実上、空文と化したのである。
国際条約調印と同時に、政府が法令を以てその実施を妨害するとは世界に類を見ない背信行為というほかない。
この結果、満蒙で日本が獲得した条約上の諸権利は、ことごとく中国側に侵犯され、満洲における日華関係を極度に緊迫悪化させ

1922年のワシントン会議で、日本は中国に山東省を返還し、満蒙に於ける鉄道と顧問傭聘に関する優先権を放棄した。
さらに「他日の交渉に譲る」ことになっていた第5号希望条項も全面的に撤回した。
条約として残存していたのは、わずか10ヵ条
2025/08/23(土) 19:19:47.43ID:EIkG8O8s0
189蜀
革命政府にして一旦樹立する場合に至らば、清朝政府は必ず満州に走り、ロシアの後援によって国命を維持せんとすべし。
これに対し、新政府は日本と同盟してロシアを打たざるべからず。
即ちロシアとの衝突は何れにするも免かるべからざる所にして、革命は一日も早きを有利とすべし。
元来吾人の目的は滅満興漢*にあるものなれば、革命成就の暁には、満蒙、シベリアの如きは日本に付与するも可なり

孫文が、日露戦中に米国で発表文
我々は故意に満州政府といって支那政府とはいわない。支那人は現在彼ら自身の政府を持っていない。もし支那政府なる言葉が支那の現政府に用いられるならそれは誤謬である。
支那の事情に通じていない人々には怪訝に思えるかも知れない。
しかしこれは事実であり歴史的事実である。読者にこのことを信じさせるためには満州王朝の出来た由来を略述すれば足りる。
満州人は支那人と接触する前にはアムール地方の原野に放浪する野蛮な遊牧人種であった。彼らはしばしば国境地方の平和な支那住民を侵(おそ)い掠奪した。明朝末期に支那には一大内乱があり、
この絶好な機会に乗じて彼らは突然南下し、ローマ帝国を北方蛮族が侵ったと同様な方法で北京を占領した。これは一六四四年のことである。
2025/08/23(土) 20:01:37.30ID:EIkG8O8s0
満州事変が起こるとともに、我が皇軍は、電光石火の勢いで、北大営を始め、奉天城を占領し・・・、奉天城の首脳部が去ってしまうと、奉天の町は、混乱を来たすおそれが、十分にありました。
 そこで、我が軍部の方では、色々と斡旋して、十九日、奉天臨時市政施行の布告を発し、特務機関の土肥原大佐が、臨時奉天市長となって奉天の治安に当たられたのでありました。
ところが、十一月七日になって、奉天市政会所が出来ましたが、これと共に、趙欣伯が、正式に市長となりました。
また十一月一日には、奉天省西北部の洮遼鎮守使張海鵬(ちょうかいほう)も独立を宣言しましたし、また、・・・張作相の参謀長熈洽(きこう)は、九月二条六日に、吉林の独立を、宣言して居りました。
この外、東辺鎮守使の干蕋山(かんじうさん)も、東省特別区行政長官張景惠(ちょうけいけい)は、ハルピンで、独立を宣言したのでありました。
 こうして、東三省は、ことごとく、支那から分離してしまいました。
今や、満州国民は、張氏父子二代の苛歛誅求に堪えかねて、張氏からはなれ、新しい政権を樹立しようとの機運が、向いて来たのでありました。そして、あちらにも、こちらにも
、軍閥打倒、建国促進の運動が起こってまいりました。そして二月中重ごろには、その運動が、次第に、表面化して来たのでありました。

張学良は、旧派長老の勧告も効かずに、満州の住民を圧迫して、出来るだけの富をしぼりとるため力をつくし、また、奉天票という不換紙幣を濫発し、新たに発行する毎に、以前使用のものは無価値となし、以て、経済界の攪乱に勉めました。
 その頃、張学良は、満州から、七千万円をしぼり取っていましたが、そのうち、六千四百万円は軍事費として用い、残りの六百万円をその他のすべての費用にあてられたのでした。
いわば、満州民は七千万円を課税として取られ、自分達のためには、わずかに、六百万円しか使ってもらえませんでした。
こういうわけですから、張学良が、一度、満州からその地位を奪われると、満州国民は非常に喜んで、早速、新政権の樹立を、心から希望したのでありました。
 かように、張学良は、内は国民から多くの富を搾取するとともに、外に対しては、隣邦を侮蔑し、条約を片っ端から破壊して、乱暴の限りをつくしました
2025/08/24(日) 01:28:09.42ID:6xV6Ugmg0
契丹国の宗教については最初は遊牧民族に特有な「シャ−マン」であったが「漢民族」を支配するようになってから「佛教」に帰依していった

契丹」が先のとおり「中国」の東北部からシベリアの沿海州から「中国」の中部、さらには遠く「中央アジア」の「イラン」にまで支配地を拡大したことから「契丹文字」や「佛教」を伝播して行った。
特に「中央アジア」では「イスラム教」が広く信じられていたが、ここに「佛教」を持ちこんだため「イスラム教」は徹底的に弾圧されて東方への伝播が阻止された。
「ウイグル」では830年ころには南部の「カシュガル」に「イスラム教」が伝わり「住民」がそれまで信じていた「佛教」から「イスラム教」に代ったが、
1132年に「契丹」(当時は「西遼」)この地を支配したことから再び「佛教」に回帰した。
「契丹」は1283年に「モンゴル帝国」に滅ぼされたが、
「ウイグル」の各地に残された「佛教徒」は頑強に<イスラム化>に抵抗したため「ウイグル」が完全にイスラム化したのは「トルファン」での1500年の中頃である。
2025/08/24(日) 02:22:49.29ID:6xV6Ugmg0
三国志」は「三国志演義」と区別するため、正史と呼ばれることもあります。
しかし、誤解してはいけないのは、この「正史」と言うのは正しい史実を指すのではなく、正当性を示す史書という意味である
それと、儒教の影響を受けていることも頭に入れておく必要があります。儒教の対外思想の本質は中華思想です。
中華(世界の中心)を支配する天子の徳を慕って「東夷・西戎・北狄・南蕃」といった四方の夷狄が朝貢するという、自国優位を説く考え方です

卑弥呼は「親魏倭王」という称号を贈られています。その証が有名な金印です
親魏○○王」の称号を送ったのは倭国の卑弥呼以外には大月氏国
「大月氏国」とは1世紀から3世紀頃の間、中央アジアから北インド地域を支配したガンダーラ美術で名高いイラン系のクシャーナ朝
なぜ、魏は倭国に対してこんな厚遇を与えたのでしょうか。

蜀は南西シルクロードを使って東南アジアの地域に蜀錦を輸出して外貨を稼いでいたため、これを遮断する目的もあって大月氏国クシャーナ朝を厚遇したのです

呉は、遼東半島や朝鮮半島に勢力を拡大していた公孫氏と手を結び、魏を挟み撃ちにする体制をとります。

魏が公孫氏を滅ぼそうとしている頃が倭国が初めて魏に使者を送ろうとしていた頃なのです。

倭国が狗奴国と戦争状態に入りますが、この時、魏は使者とともに魏の軍事権の象徴である黄幢を倭国に送っています。
これは魏が狗奴国の背後に呉がいると判断したからのようです

魏を軸にして見た場合、前半の蜀との戦いで蜀をけん制するために外交戦略として大月氏国(クシャーナ朝)と友好関係を結ぶ必要があり、
弱体化した蜀に代わって対抗してきた呉のけん制のため、その背後の海上にあるとされた倭国と友好関係を結ぶ必要があったのです。
2025/08/24(日) 12:48:09.51ID:6xV6Ugmg0
漢、後漢は濊族や韓族を抑えるため楽浪郡帯方郡を設置したが
遼東地方で有力となった公孫康が独立して燕王を称した。
後漢に代わった魏が将軍司馬を派遣して公孫氏を滅ぼし、238年に楽浪郡・帯方郡を支配した
邪馬台国の女王卑弥呼が帯方郡に使いをよこして魏に朝貢

当時、魏の朝鮮支配を脅かす存在として高句麗が台頭していたので、魏は邪馬台国の遣使を受け入れる必要があったものと思われる。

五胡十六国の激動
楽浪郡・帯方郡の滅亡、つまり漢民族による朝鮮半島支配の拠点の消滅
乗じて成長した高句麗

京観(けいかん)とは、中国において戦争で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し塚を作り、戦勝の記念碑とする風習
時には10万人規模で兵を殺し、京観を作ったとされる
討ち取った敵兵の数を誇るためだとも、太平を保つことの大切さへの戒めともいわれている
日本では寺院を建立したり首塚や耳塚などの類が一般的
2025/08/24(日) 15:26:13.29ID:6xV6Ugmg0
加藤清正が蔚山城の篭城戦で飢えた体験を持って熊本城を築城した時は篭城戦に備えて城に非常食を置き、
具体的には、壁に塗り込まれた「かんぴょう」、畳の芯にサトイモの茎、城内に植えられた「イチョウの木」など
井戸の確保をして居たので、西南戦争の時に日本陸軍は熊本城を本拠地にした熊本鎮台は城内の非常食を活用して政府軍の援軍まで持ちこたえた

灰汁巻きは、もち米を灰汁で炊くことで独特の風味と食感を持つ保存が効く物で朝鮮出兵

大陸特有のやたら強い義勇兵が出てきて面白い鎖鎌で無双する農民とか

猫神神社」
島津義弘
七匹の猫たちも連れて行ったのだ
戦の合間に猫たちに触れることで心を穏やかにし、冷静な判断を下す力を取り戻していた。
猫の瞳の動きを観察することで、昼夜や天候の変化を察知する

。猫の招きで落雷に助けられ命拾いしたという豪徳寺に残る「井伊直孝」。
黒猫に招かれて命からがら自性院に辿り着いたという「太田道灌」
2025/08/24(日) 17:50:30.37ID:6xV6Ugmg0
創氏改名とは何か?これは創氏の部分と改名の部分に分かれる
戸籍をつくるわけだが、朝鮮人には苗字がなかった。
朴とか金とかは苗字ではなくカバネといい、結婚しても変わらない。日本も明治4年までは源平藤橘があり、結婚しても変わらない
朝鮮人の「カバネ」を「苗字として扱う」という政策がされた。
つまり、金さんと朴さんが結婚したら、金または朴で家族を統一しなさい、というものだ。
これに朝鮮人は大反対!妻と家族になるなんて許されない!妻は家族じゃない!!
でもこれから日本人になったのだから妻は家族だから同じ名称になりましょうと日本人同様に扱ったわけだ。
これが創氏。
改名は、日本名を勝手に名乗る人が沢山いたため、裁判所に申し立てすれば日本名に変えることができるようにしたものだ。これは任意。
だから、当時改名した朝鮮人の名刺を見ると、日本名と朝鮮名が併記してある。
もちろん任意だから、朝鮮名のまま活躍した人は沢山いた。

これらは戦後、「創氏改名を強制された」という寓話が作られつつ、
なぜか通名を使い続けるという不思議な光景があった
2025/08/24(日) 20:48:37.22ID:6xV6Ugmg0
工藤平助の『赤蝦夷風説考』よりも詳しい情報は、ロシア人イジュヨから最上徳内が聴き取ったロシア情報

川路聖謨。
日本の会所ができているのはアニワ湾周辺だけで、それより奥地へは探険家が入った程度である。
長崎では北緯50度で分けるとの案を出したが、どこで分けるかの定見は無い。不毛の樺太を棄てても一向に差し障り無い。

1859年には、軍艦7隻を率いたムラヴィヨフ総督が来朝し、「樺太は大清帝国から奪った沿海州の属領である」

囚人の入植が多く、ロシア人と地元日本人との争いが絶えなかった。その措置を誤れば、日本は軍事力もなく、
北海道本土もロシアに奪取されると政府は考えるようになった。日本政府要人の黒田清隆は、
このまま行くと、北海道の防衛すら危ない、今は、北海道の開拓に力を注ぐべきであると考えた。
2025/08/24(日) 22:04:12.59ID:6xV6Ugmg0
徳川頼宣」(とくがわよりのぶ紀州徳川家の家祖
「これからいくらでも先陣に立つ機会はあります」となだめられると、徳川頼宣は「14歳が2度あるのか!」と激昂。
これに対し、父・徳川家康は「今の一言が槍[手柄]である」と、

藩訓「父母状「李梅渓りばいけいに命じて作成させた触れ書で、親孝行や法律を守ることの大切さが説かれています。

由井正雪の遺品から徳川頼宣の印章文書が発見され、徳川頼宣が計画に関与していたのではないかと騒動が起こります。

李真栄は朝鮮侵略(1592)の際、朝鮮義兵として戦い、捕られ捕虜になり、1593年15歳のとき日本に連行されてきた。
息子の梅渓に幼い頃から17歳になるまで儒学を教えたが、
朝鮮から連行されてきた経緯や故郷、祖先ことを伝えず逝ったのであった
和歌山市梅原)を与えられ、この地名から梅渓と称したという。
2025/08/24(日) 23:07:55.96ID:6xV6Ugmg0
778年)、日本の年号では、宝亀9年、日本からの遣唐使が26年ぶりに長安に赴きました。
一行は、正月に入京し、4月末迄長安に滞在し、帰国に際しては、在唐の留学生の他、清河と唐の婦人の間に生れた娘(喜娘)を伴います。
帰路の航海は、逆風に合い、多くの者が海に消えたものの、喜娘は、何とか父の故国の土を踏む事ができました。

日本国の舞姫11人」、777年の正月、渤海から貢物として、唐の朝廷に献上

渤海から唐の長安へ「移動」した「日本舞女十一人」新唐書』渤海伝

渤海国の謎 知られざる東アジアの古代王国
華麗な宮廷外交の展開
漢詩の応酬……海を渡った11人の舞姫
2025/08/24(日) 23:43:20.28ID:6xV6Ugmg0
帝国主義国家間の植民地分割協定の典型

日露戦争がロシアの脅威から日本ひいてはアジアを守る戦いだったというような議論は成り立たないことは明らかである。
むしろアジア解放を抑圧する側に廻ってしまった

日英同盟 インドにおけるイギリスの、朝鮮(大韓帝国)における日本の優越権
日露協約。満州は南北で分割、外モンゴルはロシア、韓国は日本の優先権を相互に認めた
桂=タフト協定(日本の韓国、アメリカのフィリピンにおける権益を相互承認
日仏協約では日本の台湾、満州南部、韓国と、フランスのインドシナ(ベトナムなど)での権益を相互に認め合う
ベトナムの民族運動への支援を停止したことにもあきらかである

協商とは Ententeの訳で、商業上の約束ということではなく、全般的に協力し合おうという協定
2025/08/25(月) 01:08:43.45ID:XpMI7RV30
満洲への進出を阻止されたロシアがインドに向うことを恐れた英国が、同盟の適用範囲をインドまで拡大したものであ
日英海軍に大西洋と太平洋から挟撃されるのではという米国の疑念を解消するために米国を日英同盟の対象外とした
この時点で日本が同盟の継続を希望したのは、中国の安定であり国際的孤立の回避であった。

)英国の対日不信と不満
日本はインド独立派の「巨悪な人物(中村屋のビバリー・チャンドラ・ボース)」を友好的に受け入れ、
イギリスの抗議や国外追放要求に対し日本政府の対応は消極的で非協力的である。
日本のアジア主義者のインド独立運動支援

「日本は本質的に侵略的な国家であり、日本は自分の将来に偉大な政治的未来があると信じている。
日本の教育や商業はドイツ式で、日本の組織や規律もドイツ式であり、このため日本人の性格も自然にドイツ式になっている。
日本が東洋のプロシャになるというのは決して誇張ではない。狂信的な愛国心、国家的侵略性、個人的残忍性を持ち偽りに満ち、
さらに日本は近隣諸国に日本独自の文化を押し付けることを道義的義務と考えている。日本の侵略的な野望とイギリスの適正な要求とを調和する余地はあるであろうか。
道義的に日英はあまりにも掛け離れている。このようにイギリスの理想と日本の野望が異なる以上、両国の間に共通の基盤を確立することは不可能である。
この日本の野望をわれわれが容認できないとすれば、日本の野望を武力で阻止する時がくることを決意しなければならないであろう。日英間に努力すべき共通の目的は存在しない。日英同盟は虚無の基盤の上に存在しているに過ぎず、
この同盟は人種的にも文化的にも異なる二つの国がもろい紙の上に書いた条項を綴じたものに過ぎない」。
2025/08/25(月) 01:20:35.79ID:XpMI7RV30
大陸国家はフランスやドイツ、ロシアの例を挙げるまでもなく、常に自らを世界の中心と考える傾向がある。特に中国はこの傾向が強く、自国文化への優越感から
周囲の民族を「東夷」、「西戒」、「南蛮」、「北狄」と位置付け、周囲の国々と対等の国際関係を維持したことはなかった。
中国は周囲の国々を「臣下の礼」をとる半独立国として、「華夷秩序」に基づく自国を中心とするピラミッド型の従属的関係しか認めなかった

中国人は自国文化に対する優越感から、優れた中国の文化を遅れた異民族に浸透させ、文化的に同化し、
中国的生活圏を拡大せることが中国人の使命であり、周辺の文化的に劣る異民族もこれを歓迎するはずと考えていたため、
近世に至るまで国境の概念がなく、中国が最初に国境を認めたのは1689年に締結されたネルチンクス条約であった。

大陸国家にとって国土の広さや資源の有無などは、国土防衛上のみならず、国家の生存発展のためにも不可欠であり、
第二次世界大戦前のドイツやソ連は自給自足を求めようと、他国を侵略した
海洋民族の社会体制や政治姿勢は、海洋が天然の城壁の役割を果たし、他国の侵略を受けることも少なく、さらに第三国の領土を経由することなく比較的自由に外国と交易し、
必要な物資や文化を導入してきたためか、国家としての社会システムや思想は開放的で、自由主義的となる傾向が強く、兵制は船を操るには特別の知識と体験を必要とするところから志願兵制度を取り、
海軍を重視する国が多い。また、海洋国は海上交通路を維持し制海権を握っていれば貿易によって国家の発展生存に必要な資源を取得することができるため、国際関係は相互に立場を認め平等視する水平的な関係である場合が多い。
 海洋国の利点の一つが安価大量の輸送力であり、海洋の存在する所はどこへでも自由に安価に多量の物資を運びえることから有無相通じる国際貿易や国際分業化を促進し、
海洋国家間を相互依存の関係としている。このため、海洋国家は世界的な協調体制や同盟関係を構築する傾向が強く、古来「海洋国は同盟国とともに戦う」と言われてきた。
 これに対して大陸国家は常に国境を挟んで隣国と臨戦態勢を維持し、侵略を受ければ多量の兵員を動員しなければならなかったため、徴兵制度を取る国が多く陸軍が重視されている。
このためか国家の性格は概して専制的であり閉鎖的で、その制度は一般に中央集権的で軍国主義的にならざるを得なかった。
2025/08/25(月) 02:27:26.22ID:XpMI7RV30
ドイツが英仏周辺および地中海での無制限潜水艦作戦を宣言し、地中海は輸送船団にとってさながら地獄の様相を呈していた

兵員を輸送する軍隊輸送船は敵潜水艦に最も狙われるため、その護衛任務は各国海軍から敬遠されがちだった
ドイツによる非道な無制限潜水艦作戦に対し、日本政府が積極的に派遣を決断したものであった

日英同盟の適用範囲はインドまでであるのに
日本は日露戦争では日英同盟の受益者≠セったが、第一次世界戦では日英同盟の与益者≠セったのだ。
2025/08/25(月) 10:54:48.16ID:XpMI7RV30
ドイツは憲法で共産党を禁止しています。
理由は共産主義はナチズム同様、民主主義に反するから
ドイツは共産党を禁止したが、その後共産党は復活したから、『ドイツが共産党を禁止したというのは間違いだ』」と言ってい来る人がいますが、
新しくできた共産党(DKP)はプロレタリア独裁を放棄したなんちゃって共産党
2025/08/25(月) 12:23:02.36ID:XpMI7RV30
無制限潜水艦作戦(むせいげんせんすいかんさくせん)

第一次世界大戦中ドイツの軍部の主張でとられた強硬策。中立国の商船をも含めていっさいの艦船を無差別に撃沈するというもので,
イギリスを海上封鎖してこれを半年内に降伏させる予定で1917年2月に開始された。しかし,所期の目的を達成できなかったばかりか,
中立国アメリカの世論をわき立たせ,ついに4月相手側に立って参戦させる結果を招いた
2025/08/25(月) 12:23:02.57ID:XpMI7RV30
無制限潜水艦作戦(むせいげんせんすいかんさくせん)

第一次世界大戦中ドイツの軍部の主張でとられた強硬策。中立国の商船をも含めていっさいの艦船を無差別に撃沈するというもので,
イギリスを海上封鎖してこれを半年内に降伏させる予定で1917年2月に開始された。しかし,所期の目的を達成できなかったばかりか,
中立国アメリカの世論をわき立たせ,ついに4月相手側に立って参戦させる結果を招いた
2025/08/25(月) 15:19:26.59ID:XpMI7RV30
昭和30年に児童向け『実録時代小説』シリーズの一冊として発表された本。しかし児童読物というより講談に近い。

柴錬痛快文庫第一弾と銘打たれた当作品。慶安の変を引き起こす軍学者・由井正雪の物語。
巻末の解説によれば「柴錬痛快文庫」
の初刊本は作者が作家生活の初期に書き下ろした児童向け作品を逐次刊行したものらしいです
2025/08/25(月) 15:31:17.98ID:XpMI7RV30
両班以外は歌を歌ってはいけない世界だったのに起源もくそもないんだよ。
似てるのは日本の演歌を真似てるんだからあたりまえよな。

社会学者の小林孝行 では音楽の事は判らないだろうな。
音楽ってのは音階から調べるんですよ、歌曲ってのはペンタトニック5音階なので、特徴的な音階が幾つかある。
鍵盤楽器の黒鍵だけ使うと中華音階、何でも沖縄民謡にしてしまう琉球音階とかね。
特徴的な音階も無く、小節も無く、何が韓国演歌だよ。台湾演歌は小節を受け継いでいます。

古賀政男が朝鮮人だとか、朝鮮の歌に影響を受けたとか言っているのは、明らかに妄想
古賀政男は日本人であり、帰国後明治大学に入学するが、彼が影響を受けたのは中山晋平であり田中穂積である。
演歌は7音階のうちの第4音(ファ)と第7音(シ)を抜いたヨナ抜き音階が多いが、
これは日本で最初にヨナ抜き音階のワルツを発表した(1902年)田中穂積の影響を受けている。

音階を持つ楽器が無いから、朝鮮音階だけ判らない。
北朝鮮の国歌が、思いっ切りヨナ抜き音階で大笑い。

演歌の由来は判っていてね、演説歌で正しいんだが。
歌詞が意味を持つのは浪花節由来、曲の方は民謡由来。
民謡≒労働歌 なのでリズムが一定

今だってアリランしかないから
五輪の引継ぎ式いろんなアレンジのアリランばっかり流してたよね

併合期以降に日本から伝わった音楽が、朝鮮半島の音楽のルーツとなるが、
それを知っている韓国人は「文化の起源を断定するのは難しい」とお茶を濁して、
知らない韓国人は「韓国音楽が日本の音楽のルーツだ」と主張します。

いつも思うんだけど何故逆に日本から入った可能性を考えないのだろう

極貧だった筈の朝鮮からウィーン留学した安益泰って人物が居ましてね。
そちらが主流になり消されてしまった日帝残滓。韓国愛国歌の作曲者ですよ〜
2025/08/25(月) 15:38:16.60ID:XpMI7RV30
例外も散見されるが、演歌の要素にヨナ抜きペンタトニックがあり、基本が4拍子。
余りに当り前で日本人にはエスニック音階だと判らない。
演歌に分類されないが『上を向いて歩こう』(スキヤキ)はヨナ抜きペンタトニック。
アジアで大ヒットしたタコの『昴』もだな、他に「ニンジャリバンバン』。
だから曲風を聞いただけで日本を思い浮かべる
2025/08/25(月) 19:09:33.86ID:XpMI7RV30
日本では文化の連続性をちゃんと追えるし証明できる。
韓国では文化の連続性が無い(近年になって日本の真似をしただけ)。
それを認めたくないからいきなり起源の話をする

トロットは日本の演歌をパクって出来たものだからそりゃ似てるだろ
2025/08/26(火) 09:58:04.32ID:TBmJfLlC0
最終的に私は不合理な偏見を克服し、それ以来、決して振り返ることはない。
2025/08/26(火) 11:10:33.24ID:TBmJfLlC0
陳碧軍は法廷で、汪兆銘の反逆行為をきっぱりと否定しただけでなく、蒋介石を真っ向から非難した。彼女は、本格的な抗日戦争が始まる前に蒋介石が日本と共謀したこと、
そしてドイツ大使を通じて日本との和平仲介を試みた初期の試みについて詳細に説明した。
傍聴席は大騒ぎとなり、裁判長の孫紅林氏は即座に介入し、陳碧軍氏に対し、事件に関係のない事柄について発言しないよう警告した。

陳碧軍氏:「あなたは王氏が売国したと非難しています。王政権下の地域は、中国の占領地であると同時に日本の占領地でもありました。
王氏は領土を一寸たりとも譲り渡していません。それどころか、敵から権力を奪い取っただけです。
一体どこの国を売ることができたというのでしょうか?日本が広東省を攻撃した時、広州の高官たちは逃亡しました。彼らは領土防衛の義務を果たしたのでしょうか?
2025/08/26(火) 12:55:37.40ID:TBmJfLlC0
徳川夢聲(とくがわむせい、47歳)は「今日の戦果を聴き、ただ呆れる」と記し
、さらに翌9日には「あまり物凄い戦果であるのでピッタリ来ない。
日本海軍は魔法を使ったとしか思えない。いくら万歳を叫んでも追っつかない。万歳なんて言葉では物足りない」

長與善郎(ながよよしろう、53歳)は「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい日に遭えると思わなかった

武者小路実篤
愚かなのはルーズベルト、チャーチル、ハル長官たちである。日本を敵に廻す恐ろしさを英米の国民が知らないのは当然だが、
彼ら責任者がそれを知らなかったのは馬鹿すぎる」

小林秀雄(こばやしひでお、39歳)も語った、「戦争は思想のいろいろな無駄なものを一挙に無くしてくれた。
無駄なものがいろいろあればこそ無駄な口を利かねばならなかった」。

保田與重郎(
わが文化発揚の第一歩にして、絶対条件は開戦と共に行われたのである。剣をとるものは剣により、筆をとるものは筆によって
、今や攘夷の完遂を期するに何の停迷するところはない」

亀井勝一郎
即ち嘗(かつ)てペルリによって武力的に開国を迫られた我が国の、これこそ最初にして最大の苛烈極まる返答であり、復讐だったのである

横光利一
先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ
自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことが、ついに顕れてしまったのである
2025/08/26(火) 13:07:09.92ID:TBmJfLlC0
小林秀雄
いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた
「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。

戦果発表が、僕を驚かした。僕は、こんな事を考へた。僕等は皆驚いてゐるのだ。まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。だが、誰が本当に驚くことが出来るだらうか。
何故なら、僕等の経験や知識にとつては、あまり高級な理解の及ばぬ仕事がなし遂げられたといふ事は動かせぬではないか。
名人の至芸と少しも異るところはあるまい。名人の至芸に驚嘆出来るのは、名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ。
処が今は、名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。偉大なる専門家とみぢめな素人、僕は、さういふ印象を得た。

竹内好
<支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも今度は払拭された
民族解放の戦争に導くのが我々の責務である
2025/08/26(火) 17:21:18.27ID:TBmJfLlC0
明治初年に起きた攘夷事件は、神戸事件、堺事件、英公使暗殺未遂事件の三つで、わずか二か月間の間にたて続けに起こっている。英国公使の事件の直後に仏公使ロッシュは英公使パークスを訪ねて、
新政府に見切りをつけてともに徳川方を支援しようと説得したのだが、パークスは危いところを後藤象二郎、中井弘蔵によって助けられたことに感謝し、ロッシュの申し出を断ったと記録されている。
 これらの事件の対応次第によっては明治政府が瓦解してもおかしくなかった
2025/08/26(火) 19:26:35.87ID:TBmJfLlC0
倭寇は官軍と対峙すると、得意の戦法『胡蝶の陣
扇を揮い、幻術を用いて衆を惑わす」という倭寇の猛威
2025/08/26(火) 20:40:42.82ID:TBmJfLlC0
亀井 茲矩(かめい これのり
秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を茲矩に授けた
台州守 浙江省台州市

(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、
城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けている
2025/08/27(水) 12:43:41.38ID:lR+/WffE0
インドネシア童話の『ワカナとボルネオの娘』。
美しい刀を持ったワカナ(倭寇)とボルネオのダヤック族の少女の悲劇の恋愛
ボルネオで「ワカナ」と訛化して英雄伝説になったという捏造まで生まれる。ワカナ伝説は、その後、大東亜共栄圏のプロパガンダと. して長く重宝されることとなった ...

岸田國士の戯曲『牛山ホテル』(第一書房、1929)
港近くにある日本人が経営するホテルに集まる日本人たち—男は日本の商社ビジネスマンと彼らに仕える日本人居住者たち、女は九州から出稼ぎのからゆきさん—利害と恋心を秤にかける入り組んだ恋愛模様、
日本を離れ世界を放浪する自由人にとって祖国とは何かという問いを設定することで,まったく新しい視角から日本および日本人の本質をとらえようとした

「この作品を書いたのは、昭和三年(一九二八)の暮れで、私が仏領印度支那に渡つたのが、それより十年前である。
私はほとんど無一物でフランス渡航を企て、幸ひ香港で臨時の職を得てこの未知の土地へひとまづ落ちつくことができた。滞在わづかに三ヶ月であつたけれども、
この東洋の植民地における日本人の生活の印象は、私の脳裡に深く刻みつけられた。
孤独な放浪の旅と、陰鬱な南方の季節と、民族の運命に対する止みがたき不安と、これらが一体となつて、この作品の基調を成してゐるものと思はれる。」
昨今のコンプライアンス、モラルチェック、効率の重視などが無い分、そこには人間の真実が、人間だからこその矛盾が隠すところなく書かれている。

林鳳 - 台湾を根拠地とし、1574年にフィリピンのマニラを襲った倭寇頭目。
フィリピンのスペイン人と中国人の間に深い不信感を生み出した。中国帝国の暗黙の脅威とフィリピンに対するスペインの立場の不安定さのため、
スペイン人はマニラで中国系フィリピン人を「ほぼ世代に1回」虐殺した
2025/08/27(水) 12:48:55.92ID:lR+/WffE0
ワカナとは、豪勇無双の武士の事だ。それはおそらくその昔ボルネオ海を横行した倭寇が、
訛って生まれ来たダイヤの言葉であろう。ワカナの歌のメロディーは、我々日本人が昔から持っている、
懐かしい催馬楽や追分の節にどこかよく似ており、余韻嫋々と語り続ける歌謡曲である。
彼等が伝説の人ワカナに対する尊敬は実に想像以上だ。かつてダイヤ族が団結して独立運動を企て
、山中に立籠った時、彼等は口々に「ワカナよ来たれ、来って我等を救え」と天に向かって祈り続けたそうである。
 かくの如く、ワカナの名は彼等にとっては極めて神聖なものとされている
2025/08/27(水) 14:45:34.78ID:lR+/WffE0
・ヒトラーは、600万人のユダヤ人と370万人のロシア人捕虜を含む1,170万人の殺害で知られている。 対照的に、裕仁天皇の軍隊は3千万人以上の死者を出したが、
その大半は中国人(少なくとも2千万人)であった。 ナチスとは異なり、日本人はガス室、毒薬、火葬場を備えた工業化された死の工場を使わなかった
彼らはナイフ、銃剣、刀剣、銃弾を使用したため、より多くの兵力を必要とした。 大日本帝国陸軍が30万人の市民と捕虜を殺害し、少なくとも8万人の女性と少女をレイプした
「南京大虐殺」(1937年から1938年にかけて上海から南京にかけての作戦)はよく知られた例のひとつだが、これは特別なことではなかった。
1937年から1945年まで、約500万人の日本軍兵士と水兵が、中国と他のアジア地域で無数の大量殺人とレイプ作戦を行った。
2025/08/27(水) 14:48:54.46ID:lR+/WffE0
彼は四川省の貧農の出身で、1928年に国民党に捕らえられて兵士にさせられ、1937年の南京陥落前夜に少尉に昇格、
日本軍の猛烈な攻撃に「首都を守れ・国父を守れ」というスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の
進攻を食い止めることなど出来ず、南京城から撤退することとなった。
部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。
その時、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。
日本軍はすぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。
誰かが「日本軍が来たぞ」と叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。
誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。
指揮官は兵士たちに、「もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ」と言って、一斉射撃を命じた。
あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。約1千人の南京市民が、国民党の兵士たちの銃弾を浴びて死んで行った。
国民党の部隊が逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として喧伝された。
外祖父の話では、他の部隊も同様のことをしてきたという。
全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は国民党が貧乏人を虫けらのように
扱うことに抵抗があったという。外祖父は、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者といわれることを恐れて、経歴を隠して逃げ回った。
2025/08/27(水) 21:09:18.18ID:lR+/WffE0
●1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件
最初に不法銃撃を受けてから実に7時間、一発の応射もせず隠忍自重を堅持したがついに反撃
7月9日★現地停戦協議成立。
7月10日★停戦協議が成立したにもかかわらず支那軍が協議で約した撤退をせず挑発
7月11日★停戦協定が成立
7月13日★停戦協定はまたもや支那側によって破られた

7月28日●日本軍(天津軍)は支那第29軍に開戦を通告
7月29日通州事件

●1937年(昭和12年)8月9日、船津和平会談の日だったが、中国軍が日本兵2人を惨殺してぶち壊した。
●1937年8月12日、中国軍3万人が上海国際共同租界の日本人居留区域を包囲。
●1937年(昭和12年)8月13日、第二次上海事変。

日本人居留民はどんどん引き揚げたがそれでも
800名の婦女子が特別陸戦隊の吹き出しに従事し、残った男子は土嚢作りを手伝い、のべ5万個も作った。

●8月14日、中国軍が上海市街のキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃。
中国人や外国人に大量の死傷者を出した。中国はこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝。
日本海軍は台風の中、日本から直接爆撃機を飛ばし、南京などにある中国軍の飛行場や前線基地を爆撃し(世界初の渡洋爆撃)

●10月26日、上海近郊の要所である大場鎮が陥落。10倍近い中国軍は南京方面へ敗走。
上海の英字紙には中国軍の撤退により上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が
非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評

●1937年11月2日〜、第1次トラウトマン和平交渉
蒋介石(国民党)、南京から逃走。漢口、そして重慶

●1937年12月10日、南京を包囲された中国軍が日本の降伏勧告を無視。
●1937年12月13日、南京陥落。
●1937年(昭和12年)12月21日〜、第2次トラウトマン和平交渉
●1938年6月12日、蒋介石軍が黄河の堤防を決壊させる 堤防決壊を日本軍の仕業と世界中に宣伝
2025/08/27(水) 21:32:49.45ID:lR+/WffE0
外交問題であるにもかかわらず、軍の中の拡大派に同調し、政治主導で解決する姿勢が欠如していたことは禍根を残すことになった。
また、近衛内閣は派兵目的を従来の居留民の保護という限定的なことではなく「自衛権の発動」
2025/08/27(水) 23:31:39.85ID:lR+/WffE0
ODAは制度、JICAは実行部隊。
松下新平はODA特委やJICA議連で推進役を務め、その結果JICAは中国の発展を支え、軍拡と反日を後押ししてきたことは事実です。
アフリカ支援も同じ構造で、日本の資金を受注するのは結局中国企業(ガーナやケニアが典型)。
日本人の血税はアフリカの自立でなく中国依存と典型的な官僚利権を太らせただけ。

中国系団体の顧問も務め、中国秘密警察と繋がる人物を外交秘書に迎えて参院通行証まで渡した松下新平。
2025/08/28(木) 09:52:08.84ID:aGsI82qr0
「左翼は勉強してるけど(著しく)偏ってる。右翼は勉強しない馬鹿」
by古田博司
2025/08/28(木) 10:28:16.27ID:aGsI82qr0
 彼らが最新式を以て誇る近代兵器も多くは欧米諸国より旧式の部分を売りつけられたものに過ぎない。その将兵に至っては、正規兵は常に後陣にあって督戦的立場に立ち、矢面に立つのは常に徴発されて故郷から引き出されて来た、
何もわからない百姓兵であることがしばしばあり、更にまた、地方的に見てもまず第一線に立たされるのは地方軍で、中央軍はいつも後陣にある。
 これら徴発された兵士の中には金儲けを目的としていたり、何のために戦うのか分からない連中も随分いるらしい。彼はもとより皇軍の敵ではない。比較するなんてのがそもそもの間違いである。

 が昔とは大分ちがう。精神力が強化され兵備も統制されて来たことは確かだ。
 殊に今度いよいよ皇軍にたたきつけられた中央軍は相当手ごわい。武器もいいものを持っているし抗日思想もなかなか根強いものがある。
 募集された百姓兵が我々から見れば実に不可解な、頓珍漢とんちんかんな挿話を提供したのに対し、中央軍の中には敵ながら天晴あっぱれな勇士もいたという。
彼らの中には単身日本陣地へ切り込んで来たり空襲して来たりして、壮烈な戦死を遂げた若武者もいて、敵ながら天晴れ日本武士の涙をさそったそうである。…中略…
 ――が何はともあれ、支那兵はやはり支那兵である。写真を見ればどことなく間が抜けていましょう。国民性はどうにもならぬものと見える
2025/08/28(木) 11:18:18.39ID:aGsI82qr0
直魯克(チュルク)
2025/08/28(木) 12:41:18.03ID:aGsI82qr0
エボラウィルス、ザイール種は感染致死率80%を超える
エボラが拡散しない理由、すぐ重症化して死ぬから
一方インフルやコロナ発症するまで数日
比較的軽症なので拡散する、その内、変異して重症化

アフリカから移民→エボラ拡散→憲法改正(緊急事態条項入り)→ロックダウン→ワクチン強制

林千勝氏「高市早苗さんがエボラ、エボラ、エボラって言ってるんですよ、総裁選の時から、コロナじゃなくてエボラの為に緊急事態条項、エボラの為にロックダウン」

ビルゲイツが来たことに繋がりますね

2025/01/24 — 厚生労働省は国内初、エボラウイルスなどの危険度が最も高い病原体を扱う施設として、長崎大の研究施設

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実はエボラは空気感染はなくウイルス保持者の血液体液に傷口や粘膜が触れた時のみの感染だから致死率は高いと思うが感染者もすぐに症状が出るので早急に隔離さえすればコロナやインフルのように
感染爆発が起こる事はないだろう
2025/08/28(木) 12:45:37.21ID:aGsI82qr0
ネット上でJICA解体に反対する人が湧いてきてますね。
そのだいたいの意見が「解体すれば中国の思う通りになる」とか「JICAはカンボジアなどで貢献した」とかだから笑う。

現実は逆だよ。
JICAがあるから日本の血税は結果的に中国企業に吸われ、利権も支配も中国に握られてきましたよね。
カンボジアでの貢献を誇る声もあるが、その果実をしゃぶったのは中国そのもので、日本には持ち出ししか残らない。
日本の血税で整備したインフラは国際入札で中国企業に握られ、カンボジアではあのビルさえ中国資本に支配され軍港すら中国に開放された。
温存こそ中国の思惑通り
2025/08/28(木) 12:53:56.55ID:aGsI82qr0
戦前だと、朝鮮人労働者としての自主渡航だと制限された為、日本の私立学校に入学金を支払い、学生証を入手し身分を偽り、日本へ渡航して働くほどでした
2025/08/28(木) 19:17:42.35ID:aGsI82qr0
光人社 イラスト・エッセイシリーズ1巻〜93巻


83冊セット 戦争体験よもやま話し
6,999円
2025/08/28(木) 23:06:57.35ID:aGsI82qr0
カイロ宣言の原文。
注:英語の「Manchuria」に相当する中国語は取り消し線で消され、「the four northeastern Provinces(東北四省)」に置き換えられている。
満州と台湾は中華民国に属していない。満州の主権国家としての正統性は、清朝、北洋政府、そして民族自決から受け継がれたものであり、重慶・南京政府とは何の関係もない。
台湾は清朝から日本に割譲されたものであり、日本は戦後単に主権を放棄しただけであり、中華民国とは何の関係もない。

この宣言は新聞の声明にすぎず、法的効力はありません。 しかし、この宣言は基本的に戦後、ヤルタ-サンフランシスコ体制の政治的分裂と一致していたため、
満州への犠牲は事実上カイロで決定された。
2025/08/29(金) 13:41:12.66ID:gxDk6rwR0
「テニス界で、女子が男性よりも賞金が少ないことについて、どう思われますか?」

ナダル選手
「分かりません。なぜファッション業界では女性が男性よりも多く稼ぐのでしょうか?」
そっちの業界では、一日中、収入差について話しているわけじゃない
私個人としては、偽善を避けるように努めているので答える。そして、私が正しいと考える方法で答えても、
君たちは——これは過剰な批判ではないが——私が実際に言っていることよりも、売れる見出しに興味があるようだ。
だから、この話題についてはもう答えない。
なぜなら、私は通常、論理的で正しい答えをしていると信じているし、時々……まあ、私の言葉が曲解されることがあるからだ
2025/08/29(金) 14:36:14.17ID:gxDk6rwR0
JICAがなければ中国の一帯一路が進む」とか言う人がいてしつこい。
いやいや、現実を見ましょうよ。JICAが動いても中国の案件は同時に走ってるし、入札は安さ優先だから国が後押しする中国企業が実際に取っている。
港や道路なんて軍事にも転用できるから、中国の拠点作りを手助けしてるようなもの。しかも日本が整備した分、現地の予算が浮いて、
それが別の中国案件に回っている自然な流れが起きてるでしょうが。要するに「日本はお金だけ出し、中国が実利を持っていく」これが現実。
あと、日本の政治家とODA利権、中国への忖度を直視できない人が多すぎ

「天下泰平」をほざきつつ結局、「徳川泰平」しかせず私欲を貪り日本の金銀希少金属を海外流出させた江戸幕府
2025/08/29(金) 16:37:25.97ID:gxDk6rwR0
EU代表部は加盟国以外に、候補国(例:ウクライナ、モルドバ、セルビア)、周辺パートナー国(例:ジョージア、エジプト、アルジェリア)、重要な貿易相手国(例:中国、アメリカ、インドなど)、開発援助や地域安全保障の対象国(例:アフリカ諸国)にも設置されています
2025/08/29(金) 16:52:59.84ID:gxDk6rwR0
アジアでイギリスの貿易秩序を崩そうとした玄陽会(黒龍会)

日英同盟を放棄し(918事変で満州を奪取)、大アジア帝国を樹立

日本の汎アジアは本質的に偉大な日本主義
2025/08/29(金) 17:47:12.80ID:gxDk6rwR0
秀吉は、本来全州(広西省全州か、福建省泉州か)の人奴であり、あるいは浙江寧波の慈谿県の陸氏であり、
嘉靖の末年、広東の海賊曾一本に従って戦いに負けて日本に亡命したのである。

秀吉は中国の福建人であり、若い頃商売を生業として従事したが、あいにく日本に漂着して日本の軍隊に編入された。
日本兵としての秀吉は戦上手で功績を積み重ねて関白に昇進した

開戦二年目となる一五九三年、明国政府は許豫という人を、諜報活動のため密かに日本に送り込みます。

二千人くらいの中国人が日本にいたとも記録されています。
政府間の国交はなくても、貿易をはじめとした民間レベルでの行き来はあった
こうした日本からの帰国者や貿易商が「豊臣秀吉・中国人説」の発生に関与していると考えています
2025/08/29(金) 17:55:09.57ID:gxDk6rwR0
代々中国明朝で要職を務めていたものの政争に敗れたため
1506)年、中国人陳李長(ちん・りちょう)の一族130人が長崎に上陸し、仏像を制作する仏師(ぶっし)として豊後府内(大分市)に移住して
「智元(ちげん)仏師」を名乗ったこ
2025/08/29(金) 22:57:41.96ID:gxDk6rwR0
第一次世界大戦の末期、ドイツ革命を起こし「背後からの一突き」でドイツを敗戦に追いやったのもユダヤ人。
このことがドイツ人の恨みを買い、後のユダヤ人迫害に繋がっていく

ドイツ革命で新政府が樹立されると、ドイツ国中央政府もプロイセン内閣も、政権の中枢部に座ったメンバーのほとんどがユダヤ人であったのだ。この点はロシア革命と全く同じであったのだが、そういう重要な史実が戦後の教科書などでは抜け落ちてしまっている。
社会民主主義という仮面をかぶっていたボルシェヴィズム。

『ボルシェヴィズムとは、全世界のキリスト教諸国民から、残らず財力を奪い取り

ナチスやヒットラーはユダヤ人を迫害した人類の敵であるかのように描かれることばかりだが、
ユダヤ人がそれまでドイツに何をしてきたかを一言も書かないのはバランスを欠いていると言わざるを得ない
2025/08/29(金) 23:46:55.66ID:gxDk6rwR0
ソ連の指導する中国共産党が現われるにしたがい、大正十二年から少し雲行きが変わってきた。
学生会のリーダーは、英米系の基督(キリスト)教青年会の幹事から、いつの間にか共産主義青年団の幹部となり、排日から反帝国主義運動になった

の北伐には、ソ連と英国との仲の悪い時ではあり、反帝国主義運動の鉾先をまず英国に向け、
武漢に飛び出してきた国民軍は口々に「打倒英国」を叫び、武漢政府は漢口の英租界を武力で占領した。
2025/08/30(土) 15:52:58.39ID:YGMMUlAh0
そりゃ毎年のようにテロやってたんだから朝鮮人が疑われる背景があったんよ
なんの前科もないのに疑われたわけじゃない

1919年 三・一独立運動
1920年 尼港虐殺事件
1921年 朝鮮総督府爆弾事件
1922年 田中義一陸軍大将暗殺未遂事件
1923年 鍾路警察署爆弾事件
    →★関東大震災
1924年 二重橋爆弾事件
1925年 慶北義烈団事件
1926年 東洋拓殖株式会社爆弾事件
2025/08/30(土) 16:12:38.27ID:YGMMUlAh0
どうしたものか日本軍は、バルガスとかラウレルとかアキノといった親米派を比島政府の閣僚として活躍させたのに対し、日本に終始協力し、生死をともにしたリカルテやラモスやジュラン博士やドウラン議員などの
親日派を起用しようとはしなかった。これはフィリピン人からしてみれば奇妙なことであった。
日本は口でこそ、革命とか、独立の達成とか、フィリピン人のフィリピン建設などといっているが、結局は、アメリカの植民地政策の踏襲ではないかという感を抱かせた。同時に親日派に拭いがたい不信と不満をつのらせた。

 第三の重大過誤は、軍政を布くと同時に、突如「比国国旗掲揚禁止令」を発布し、独立運動を禁止したことである。この命令はリカルテをはじめとするフィリピンの民族主義者をいたく落胆させ、憤激させた。
日米開戦で触発されて燃え上がったフィリピンのナショナリズムの焔に、冷水三斗をあびせたようなものであった。フィリピンの民心が益々日本から離れていき、
抗日ゲリラがますます勢いをえてはびこっていったのも当然のことであった

アメリカは一九四六年にフィリピンの独立を約束していたのだが、経済利権等は引き続きアメリカが掌握していく方針は変えておらず、そのためにはフィリピン人民を再び反日・親米に傾けて行く必要があった。
2025/08/30(土) 16:32:21.38ID:YGMMUlAh0
戦前、戦中においては、食糧を自給できるようにすることの重要性について述べた著作が少なからず存在したのだが、
戦後になってGHQはこのような本のいくつかを焚書処分している
私は、前欧州大戦は食糧に始まり、食糧に終わった戦争だと観察している。つまり、苛烈なる食糧戦争である
食糧は、戦力国力の源泉であって、兵器弾薬に優るとも劣らぬ重要なる国防要素である

ドイツ軍は武力戦には勝ち続けておったが
ドイツの食糧は平時一割強を輸入していたが、開戦とともに食糧封鎖を受けた
イギリスもひどかったようだ。

食糧価格が高騰し、世界の多くの国々が食糧問題で苦労した経験から、第二次世界大戦に参戦した欧米主要国は、食糧生産と備蓄に万全を期すべく準備を怠らなかった

戦後日本の食糧事情の悪化に対して、
アメリカが学校給食用の小麦を無償提供したのは農家の小麦過剰による価格の暴落をふせぐため、慈悲のためではない。
要するにアメリカは、わが国を自国の余剰小麦等の処分場と定め、それによりわが国の農業を弱体化させて食糧自給率を低下させ、
軍事力だけでなく食糧をも、わが国をアメリカに依存させようとした

戦後になってからは特に、食糧自給の重要性が軽視されるようになり、外国から安く輸入すべきだという主張が長きにわたり幅を利かせてきた。
そのために、今や我が国の食糧自給率はカロリーベースで4割を下回る水準となってしまっており
、穀物自給率については3割を大きく下回り主要先進国のなかで突出して低い状態が続いてい
2025/08/30(土) 17:03:30.05ID:YGMMUlAh0
西洋諸国がアジア諸国を植民地として支配し住民を屈服させる対象としてしか
見ていなかった時代に、日本だけが大国イギリスと同盟(=対等な関係)を
結ぶという快挙を成し遂げていたという事実
2025/08/30(土) 17:23:34.77ID:YGMMUlAh0
大正9年(1920年)3月に起きた尼港事件で、ロシア人、中国人、朝鮮人からなる四千名の共産パルチザンがニコラエフスク市を包囲し、七百数十名いた日本人のほとんど全員が惨殺
大正10年(1921年)に、武力による朝鮮独立を目指していた義烈団の金元鳳(キム・ウォンボン)らが、欧州歴訪に向かう途上の香港にて裕仁皇太子(後の昭和天皇)を拉致暗殺する計画

朝鮮人にかかわる犯罪や暴力沙汰の記事が新聞に載っていない日は少なく、彼らはただ犯罪率が高いだけではなく、義烈団などテロ組織のメンバーが続々わが国に潜入しており、
武器や弾薬を隠し持っていた事実などが明らかになっていたのである。このような記事が何度も何度も新聞の紙面を賑わしていたことを考えると、
関東大震災時に避難者の多くが朝鮮人を警戒したことについては、充分に理解できることなのである。
震災の後に、朝鮮人が掠奪や暴行を行った記録も多く

8月24日に加藤友三郎首相が急逝し、関東大震災が発生した時点(9/1)では内閣総理大臣は不在であった。
9月2日の夕刻に第二次山本権兵衛内閣が組成され、内閣は9月5日に民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」を発している

 さらに政府は、新聞などで「鮮人暴動」に関する報道を禁じている。事態の鎮静化を図ることと、無辜の朝鮮人や、朝鮮人と誤認された日本人が被害に巻き込まれないように、余計な報道は控える旨の措置であった。
 震災後50日以上たった10月21日に、政府はようやく朝鮮人暴動に関する一部の報道差し止めを解除
2025/08/30(土) 17:49:52.29ID:YGMMUlAh0
山中峯太郎『敵中横断三百里
樺島勝一:かばしま かついち
挿絵には、夜の場面が多いのは、敵中潜入なので、夜の場面が多くなったようです
物語の進行が幾夜かにわたるうちに月の形が変わってくる。本文にはそこまで詳しく説明がないのに、
月の満ち欠けを正確に追って描いているこの辺の、芸の細かさ

写真を思わせる椛島の画が、やや静止的だったのにくらべて、梁川剛一の画は、立体的で躍動的
2025/08/30(土) 20:49:35.81ID:YGMMUlAh0
厳冬のためアレクサンドロフスク港より北に砕氷船が進むことができず、その港から陸を進むとすると雪と氷の上を二百里以上進まなければならず、
結氷期間中に救援軍を派遣することは絶望的な状況にあった。
解氷期を待って、ようやく救援軍が六月三日にニコラエフスクに到着し占領したのだが、
パルチザンは五月二十五日に市街に火を放って全市を焦土として退却

無線通信の設備がパルチザンにより破壊され、次の日には「日本人を鏖殺せよ」との貼紙が市中到る所の電柱に貼られていたそうだ
河口には支那の巡洋艦及駆逐艦二隻碇泊し之がパルチザンに加担して市街に砲火を浴せかけた
赤衛軍の中には約一千の朝鮮人と六百の支那人あり

過激派はわが国が送った救援隊が近づいている情報を知り、五月二十四日以降邦人全員を黒龍河畔に連れて行き、
ことごとく刺殺して河に投じられたのだそうだ。
ロシア人も数百名が殺害

彼等過激派の行動は偶然の突発にあらずして、徹底的画策の下に実行されたもの
老幼男女問わず家人ことごとくを家屋内に押しこめ、外部より各出口を厳重に閉塞し、
これに放火し、容赦なく火中に鏖殺し尽くしたり

馬匹二頭を並べ、同胞男女の嫌ひなく両足を彼この馬鞍に堅く結び付け、馬に一鞭を与えるや、両馬の逸奔すると同時に悲しむべし、同胞は見る見る五体八つ裂きとなり、
至悲至惨の最後を遂ぐるを見て、悪魔は手を挙げ声を放ちて冷笑悪罵を浴びせ、群鬼歓呼

弾はかく込めるものぞ、銃はいかに射つものなるぞと教わりつつも戦線に加わり、無念骨髄に徹する敵に対し勇敢なる最後の抵抗を試み、
ことごとく壮烈なる戦死を遂ぐ

、なんとかハルピンに到着したのは、事件があってから三十六日目のことであった
2025/08/30(土) 20:58:45.42ID:YGMMUlAh0
頑として責任を認めないソビエト連邦に対し、謝罪と補償を求めるため北樺太(現在のサハリン北部)を保障占領すらしたのである

日本が数年だけとは言え北樺太を「占領」していたのも、「日ソ外交史」においてはきわめて重大な歴史的事実なのだが、
これも現在多くの日本人が知らない。理由はおわかりだろう、尼港事件を隠蔽しているからだ。
「日本軍、ソビエト領北樺太を保障占領」という歴史的事実の理由を述べるためには、「かつてドイツが清国の膠州湾を占領したのは、
ドイツ人宣教師が殺害されたことが原因としてある」ように、因果関係に言及しなければならない
日本側の視点から言えば、この占領は「当然の行為」だが、ソビエト側から見れば「日本の飽く無き領土的野心の発露」であろう。
そうした対立する視点を踏まえながら裁判官のような公平な視点で歴史上の事象を評価分析するのが、歴史を論ずる者の最低限の心得である。

しかし、左翼の歴史学者は事実を直視せずに「共産国家の悪は暴きたくない」という姿勢を優先させる。だから、当然彼らの下す「判決」は公平性を著しく欠いたものとなる。彼らの指摘する「事実」がすべてデタラメだとは言わない。
これを刑事裁判にたとえれば、彼らの主張は「検察側の論告」である。つまりは被告「日本軍あるいは日本人」が罪を犯したと決めつけ、
有罪の推定」のもとに被告に不利な事実だけをピックアップして糾弾するという「検察側の手法」だ。
これに対して、実際の裁判では弁護人の弁論がある
「シベリア出兵には、日露戦争で犠牲になった人々の死を無駄にしてはならないという強烈な思いがあった。それが最大の動機である」とか「日本軍が最後までソビエト領内にとどまったことによって、
置き去りにされたポーランド孤児たちを救出することができた」などというもので、「シベリアからの撤兵が遅れたのも、日本の民間人が虐殺された尼港事件の責任をソビエトが認めなかったからだ」という弁論も成り立つ。
そうした検察側と弁護側双方の言いぶんを勘案し、最終的な判決を下すのが裁判官の役割だ。考えてみれば、歴史を論ずる者は「検事、弁護人、裁判官」の一人三役をこなさなければならない。
じつに大変だが、それをこなす覚悟が無ければ歴史を論ずるべきでは無い
2025/08/30(土) 21:33:05.86ID:YGMMUlAh0
「不法行為」とは、現地の日本軍が赤色パルチザンと休戦協定を結んでいたのに日本側が一方的にそれを破棄して赤色パルチザンに奇襲をかけた、ということのようだ。
しかし、仮に日本軍のほうにそうしたルール違反があったとしても、それは赤色パルチザンが日本人非戦闘員を殺していいという理由にはならないのである。
それが人類の常識なのに、左翼歴史学者はいかにも日本側に責任があるように書く。これも一種の情報操作である。

絶対に自国の責任は認めないソビエト政府(絶対に共産主義国家の悪口を言わない日本の左翼歴史学者と見事に「呼応」している)ですら、
ニコラエフスク(尼港)における虐殺と破壊は「事実」と認め、現地に派遣されていた赤色パルチザンの指揮官ヤーコフ・トリャピーツインら幹部を死刑に処した。
要するに、自国の悪は必ず隠蔽するソビエトですら、トリャピーツインの悪行は見逃せなかったということだ。
2025/08/30(土) 22:02:37.80ID:YGMMUlAh0
当時のニコラエフスクは、日本がロシアに置いた4つの公館の一つ(モスクワ、ペテルブルグ、ウラジオストーク、ニコラエフスク)が置かれるほど重要な都市

一般市民などやく730人が居留していました。
そこえへトリャピーッインなる正体不明のリーダーが現れ、パルチザン(非正規軍)を指揮して白軍(非革命派)を攻撃、白軍軍隊のみならず、ロシア人一般市民迄も虐殺しはじめます。
当時、駐屯していた日本軍は攻撃しないと言明していましたが、ロシア人皆殺しの過程で日本軍司令部に対して「武装解除」すれば攻撃しない、と言ってきます。
しかし、武装解除すればどうなるか分かり切っているので、日本軍はこれに応じず、全滅覚悟で撃ってでます。
相手は6000人の無法者たち、ついに日本軍は全滅、指揮官は家族を殺して自殺、一般市民ならびにロシア人6000人は皆殺しにされます。
しかし、生き延びて日本へ逃げかえったものから事件の真相が知られ、世論は紛糾しました。
しかし、日本政府は「交渉すべき相手国(ロシア)に正当な政府がない。」などの理由でロシアに抗議せず。
替わりに、当時ロシア領だった樺太北部(樺太南部は日露戦争により日本領土)に軍隊、一般人などを送り込み永久占領の体制をとります。
ロシアに正当な政府が出来て、尼港事件の賠償に応ずれば樺太北部を返還するという口実でした。
しかし、上記の通り欧米諸国からの非難、国内世論の反対などにより1922年撤兵しています。

勝田銀次郎
大正7年(1918年)、ロシア革命後の内戦から逃れる為、子供たち約800人が難民となり、ウラジオストクでアメリカ赤十字社に保護されていた。
さらに戦火が及ぶことを心配したアメリカ赤十字社からの要請により、日本の貨物船がフィンランドへ送り届けた

1920年の春にはポーランドとソビエト(ロシア)との間で戦端が開かれ、輸送手段としてシベリア鉄道を使うことも不可能となった。
結局、最後にウラジオストク在住の同委員会が頼った先が日本であった
シベリア出兵中の日本陸軍が支援計375人もの孤児がシベリアを脱して東京の地を踏んだ。
第二回となる救済事業が実施され、390名の孤児たちが今度は大阪に到着
全員が無事にポーランドまで送り届けられることになった
2025/08/31(日) 01:01:09.23ID:6IZAsVzT0
日本の事実上の占領地であり、赤軍に敗れた白軍の部隊もここへ逃げ込んできていた。日本にとって白軍は友軍だから彼らとは敵対せず、
もちろん武装解除も求めず平和的な共存状態を保っていた。
問題は、この地が戦略上の拠点だったことだ。アムール川のような大陸の川、いや大河を日本の川の常識で考えてはいけない。
戦艦も悠々と航行できる広さと深さがある。
ここを押さえておかないと、日本海軍が大陸への進入路として活用する可能性があったのだ。そこで赤軍は、「尼港奪回」を策した

休戦協定」が成立していたのは事実である。それを日本側が(通告せずに)破って奇襲攻撃をかけたのだから、「不法攻撃」という表現はまったく誤りとは言えない。
しかし問題は、日本がなぜそんな無謀な攻撃に踏み切ったかであろう。
そこのところがきちんと説明されていなければ、いかに簡潔を要とする百科事典の記述とは言え、適切とは言えない。
2025/08/31(日) 01:13:56.92ID:6IZAsVzT0
〈両軍は交戦状態に入ったが、二十八日秩序維持協定が成立し、市内に入ったパ軍は、協定を無視して不法暴虐の限りを尽くし、
武装解除を要求してきた〉
「パ軍」とはパルチザン軍の略で赤軍のことだが、要するに先に「不法攻撃」をしたのは赤軍のほうだったというのだ。

「乱妨取り(乱取り)」
他国を侵略した兵士が勝利に乗じて住民から物資を略奪したり女性を強姦したりすることである。しかも多くの場合、
それは虐殺にも繋がった。生かしておいては、あとでなにかと面倒なことになるかもしれないからだ。
日本でも室町時代後半から始まり、戦国時代にはあたり前の常識となった。しかし、織田信長が一方で雑兵にも賃金を支給し占領地住民への略奪暴行を厳しく禁じたことによって、
この悪しき習慣は根絶された。たしかにその後、
豊臣家が滅亡した大坂夏の陣において「乱妨取り」は一時的に復活したが、それ以降はまったく無い。戊辰戦争でも調子に乗った官軍兵士がそういう行為に走ったケースは絶無とは言えないだろうか、
少なくとも軍規においては厳しく禁じられていた。簡単に言えば、日本はそれだけ「文明国」だったということである。
ところが、ロシア、中国(中華民国)、あるいは中国の影響を強く受けた朝鮮はそうでは無い
2025/08/31(日) 11:37:57.17ID:6IZAsVzT0
ロシアではどうして日本の一商社が紙幣の発行などできるのですか?」
黒川の社長は答えました。
■「おお、そいつは良い質問だ。昔から貨幣偽造は死罪だからな」
そして、次のように説明しました。
この極東の港町では、人々は夏の間に獲った鮭を売り、そのお金で次の夏まで生活するのだが、政府の紙幣は極端なインフレで信用がない。 またこんな田舎は無政府状態だ。
人々は鮭を島田商会に持ち込み、受取証をもらう。 それが島田商会札だ。 島田商会はこの町で幅広く百貨店や料理店を経営しているから、この札があれば暮してゆける。 
この町では、政府の紙幣よりずっと信用のある紙幣として使われているのだ

ロシア革命の混乱のなか、ニコラエフスクで流通していたのはロシア政府の発行するルーブル札ではなく、島田元二郎の島田商会が発行していた通称ピコラエヴィッチという紙幣であった。
より正確にいうと、紙幣というよりも、商品との交換を前提にした商品券や小切手のようなものだったが、信用力のある実質的な通貨として流通し、地域経済を支えていたのであった。
ある意味では、このローカル・カレンシー(=地域通貨)は、競争力をもった実質的な通貨であったというわけだ。

流れ流れて 落ち行く先は 北はシベリア、南はジャワよ〜何処の土地を 墓所と定め」というのは、「流浪の旅」
田舎から口減らしに身売りされ、外地を流転した、からゆきさんを歌った哀歌だという

高倉健主演の映画「海峡」
森重久彌が、昔の出来事を回想しながら歌う
2025/08/31(日) 13:42:47.08ID:6IZAsVzT0
ナイジェリアには、ボゴハラムという宗教組織があり、女子高を襲撃して少女たちを大量に拉致して、性奴隷にし、赤ちゃんを産む家畜にしたことで有名だ。
これらは「悪いことをしてやるぞ!」と考えてしたのではなく、神様から命じられた善行であると主張しているわけじゃ。
何故ならば、そもそも女性が教育を受けている時点で神への反逆であり、父親などの男性と物理的に距離がある時点で、それは「野良」なわけだ
動物愛護法が施行される前の昭和時代、野良犬を殺したり獣姦しても、特に罪にはならなかったじゃろ?
でも、他人様の飼い犬を獣姦したら器物損壊罪になったわけだ。連中の女性観もこれと似ていて、
「家の中で父親や兄や夫」に飼育されている女性をレイプすることは、その父親らの権利を侵害することで悪いことだが、
その辺の路上を女性だけで歩いていた場合、それは「野良」なわけで、基本的に拉致して解体しても何も問題ないわけだ。
ワシらは国家の下に生きているが、連中は国家の上に宗教があり、宗教法が国家の定めた法律より優先されるわけだ。
実は共産主義も同じで、国家の定めた法律よりも共産主義の教理が優先される

法律とは国家が定めるため、国家が理解出来ない以上、法律も理解できないわけだ

そう、確かに宗教の教義上何も悪いことはしていないんだわ。
そもそも異教徒の女は性奴隷にするのが宗教上の善行だしな

秩序の破壊があれば、共産革命をしやすいよな。
20世紀の共産主義は、貧困や被差別部落を煽っていたが、技術革新と経済発展で貧困でも楽しい生活になり、被差別は補助金で豊かになった。
これでは共産主義革命に必要な混沌とはならない。
そこで、犯罪と病原体に満ち溢れた日本にする方法を21世紀の共産主義はやっているとワシは分析している。
移民推進と共産主義はセットなわけだ

だから、移民労働による経済的利益と、移民による犯罪や地価下落などによる経済的損失を差し引きする計算結果を絶対に公表しないじゃろ?
移民は共産主義を推進するためにある!
2025/08/31(日) 19:06:33.66ID:6IZAsVzT0
警察庁から外国人の犯罪検挙数と日本人と比べた場合の比率を示す資料を出してもらいました。
検挙数は増えていますが、比率は下がっていまし

注意書きに小さく書いてあるけど
不起訴になった場合は検挙数から除かれる

外国人が岸田政権の頃からやたら不起訴になってる

全国で希釈すると外国人側の犯罪率が低くでますね。まだ外国人人口の少ない地域が多いので。外国人の多い県単位で取った方が本当のやばさが分かりますよ。
埼玉の場合、トルコ国籍が日本人の約30倍、ベトナム人が約10倍の犯罪率です。茨城でもカンボジア人やタイ人が約5倍と前に計算しました

日本国民として調べた場合、帰化人も含まれるなら帰化人の犯罪比率も必要かと
2025/08/31(日) 21:03:27.97ID:6IZAsVzT0
シベリア出兵の歴史は、日本軍部にとっては失敗の記録であり、戦前はその研究はいわばタブー視され、この戦争において日本が対外選択面でおかした誤りや軍事行動の醜悪な一面に研究のメスを入れることは、少なかった。しかしこの戦争は、次の世代にとって学ぶべき教訓を実に多く含んでいる。
たとえば、シベリア出兵の歴史について深い知識を持つ軍人であれば、日中戦争の際、それを活用し、反省の材料にしえたはずである。いったん派兵すると、撤兵がいかに困難な業になるか、
シベリア出兵の際の単独出兵の歴史がこれをよく物語っている。太平洋戦争に突入した1941年、戦争の回避をもとめた日米交渉も、中国からの日本軍の撤兵問題で難航、ついに暗礁に乗り上げ、戦争となった
2025/08/31(日) 22:37:49.17ID:6IZAsVzT0
ソ連の共産党政権が当時、日本との間で結んでいた日ソ中立条約のために中国共産党に日本軍への直接の攻撃を避けるよう圧力をかけていたこと
2025/08/31(日) 23:24:04.02ID:6IZAsVzT0
この当時日露関係は非常に良好だった。イギリスとは開戦時の地域制限
論争が気持ちのうえで最後までつきまとった。これに対しロシアの要求は日本の実情を考慮し非常に懇切ではあり丁寧(*)なものだった。
朝野では日露同盟論が沸きあがったという。この気分がシベリア出兵に影響したことは確実だ。戦時中の帝政ロシアは自ら総動員によって開戦
原因を作ったためか同盟国にたいして誠意でこたえた。
日本も小銃や野砲の供給でできる限りのことをした。当時全世界で武器供給能力のある国は日本のみだった。アメリカは生産能力は圧倒的だった
がこの時は民生品に限られていた

日本に領土的野心があったのは確かだがそれは2の次で、
反共という全人類共通の正義のためにしたこと
シベリア出兵での死者は2000人、負傷者は2万人、戦費は当時の金で10億円。
それで得たものといえば、日本は領土的野心を持っているという列強からの不信感のみ。
国策上全くの誤りであった。

出兵当時、英仏は領土的野心を持っていたけれど、(+反共産革命)戦線の停滞や厭戦気分によって撤退した。
アメリカは始めから、領土的野心は無かった。ドイツは途中で脱落した。
その中で日本だけが残ったため、孤立していった

アメリカでいえばベトナム
ソ連で言えばアフガン
実質的には日本帝国の初めての敗戦

田中義一が機密費そっくりくすねたのも、この時です。
彼は、その金で政友会を買いましたw

山東問題に端を発する反日暴動の激化、また段祺瑞の直隷派と安徽派の戦争(安直戦争)が始まり、原内閣はあわてて北京親日派に
大規模な梃子入れをせざるをえなくなっていった。南北妥協どころではない、
日本は満蒙権益を守るために汲々とせざるを得なくなっていたのである。
ここで日本が目を付けたのが、安直戦争においてキャスティング・ヴォートを握った奉天軍閥の張作霖である
2025/08/31(日) 23:42:10.62ID:6IZAsVzT0
第一次国共合作は破綻したが、国民党内の南京政府と武漢政府の対立も尾を引いていた。南京の蔣介石と武漢の汪兆銘はそれぞれ引退するというポーズを取って妥協を図った
蒋介石が日本を訪れたのは、(昭和2年)9月28日のことである。
蔣介石は日本に対し北伐への軍事支援を要請したが、田中首相は満州では張作霖を支援しているので、蔣介石に対しては北伐を急がず、長江以南にとどまるよう説得したという
2025/09/01(月) 00:03:14.84ID:lNwNPnm40
田中義一は長州閥出身の陸軍軍人で陸軍大臣を2期務めた後、立憲政友会総裁へ
と転身する。この立憲政友会というのは今で言う自民党みたいな存在かな。
しかし、彼はクリーンな方法で政友会総裁に登り詰めたわけではないようだ。
彼には「陸軍機密費横領疑惑」があった。この「陸軍機密費横領疑惑」とは、
田中義一が陸軍大臣時代に陸軍の機密費約300万円(現在の約100億円に相当)
で公債を購入、その利子を私物化し、その金を政界にばらまいて政友会総裁に
就任した――と疑われた事件である。この事件は新聞にも大々的に報じられ、
国会でも大審議となった。もう少しかみ砕いて言うと、国にお金を貸すことに
よって発生する利子をあっちこっちにばらまいて政友会のドンになった、つまり金で総裁の座を買った、ということだ。

連合国の列強はソヴィエト政権が帝政時代の債務を放棄し、秘密外交文書を暴露(1917.12)したことに強い反感を持ち、
ソヴィエト政権を打倒するために反革命軍を支援
2025/09/01(月) 10:46:46.74ID:lNwNPnm40
学問としての歴史学と国民を育てる歴史教育では目指すところが異なります
しかし、だからと言って歴史学に敬意を表さないところに歴史教育もありえませ
史料から主観的要素や神秘的な要素、非合理な要素などを取り除き、証拠に基づいてあったこととなかったことをより分けます

欠史八代は戦後から後から追加された架空の存在たされ、初代の事績を神武と第10代崇神に二分割してその間に挿入されたものという見方多かった。
しかし、戦後発見された埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘には8代の名前が刻まれている。
欠史八代の各天皇の和風諡号は特徴的なものである
欠史八代の和風諡号は、遥か後代の史書編纂時に与えられたものである可能性が高いと見られている

遠い先祖の名前はオホヒコ、その子(の名前)はタカリのスクネ、その子の名前はテヨカリワケ、その子の名前はタカヒシワケ、その子の名前はタサキワケ、その子の名前はハテヒ、
(裏面)その子の名前はカサヒヨ、その子の名前はオワケの臣です。先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として今に至るまでお仕えしてぎました

文字を持たなかった遊牧民でも先祖の名前は十数代くらい暗記しているのが普通だったことからも、欠史八代の名前が伝承されていても何ら不思議ではない。
けれど、歴史学者の中には頑なに認めたがらない人がいるんだよね。
銘文なんて文字数が制限されるのに赤の他人の前任者の名前なんかをわざわざ刻むわけない。

一般的に、「児〇〇」はその前の人物の子供であることを示しているとされているが
親子関係ではないとする説も存在する
地位を継承した族長

記紀の編者達からすると推古以降が現代なんだろうな
2025/09/01(月) 16:50:45.27ID:lNwNPnm40
中央ソビエト区は江西省と福建省に位置し、存在4年間で人口が国内で最も減少した
これらの地域に住む人々は逃げるのが難しいので、戦闘死者を除けば、この70万人は基本的に死者数であるはずですが、これらの人々はどのように死んだのでしょうか?

1934年冬、中国共産党軍の「長征」が出発する前、逃走の行方を暴露しないために、中国共産党紅軍総政委を務めた周恩来は、
厚かましくも数万人の傷病者と「政治的に信頼できない」分子の殺害を命じ、これが中国と世界を震驚させた「集団墓地事件」だった
2025/09/01(月) 17:12:17.26ID:lNwNPnm40
1945年8月25日、日本が降伏を発表した直後、20人の共産党上級将軍を乗せた米国の輸送機が延安から華北共産党の基地地域に飛んだが
しかし、当時の米軍はこれらの人々の正体を知らず、

10月10日、国民党と共産党は重慶で「双十協定」としても知られる「会談議事録」に署名した。
しかし、毛沢東は平和会談直後延安に戻ると、すぐに軍隊に「直ちにチャンジェス行政区域攻撃を開始する」
という命令を下し、「双十協定」を公然と毀損した

全国で多くの人々が餓死したとき、毛沢東と中国共産党当局は、国民の死活に関係なく、それぞれ250万トンと100万トンの穀物を輸出した。
毛沢東がこのようなことをした理由は、これらの人々の生活に関わる穀物と大量の非主食、日用品、鉱物原料を外国為替と交換して
軍需産業(核兵器、ミサイル、核潜水艦など)を輸入して発展させるためだった。 など)と軍需産業の基盤となる重工業に必要な装備、器具、原材料、技術など。
毛沢東は、これらの武器を、世界中で共産主義革命を推進し、
世界共産主義革命運動の「偉大な指導者」になるという夢を実現するための不可欠な物質的基盤と見なしました

中国との交渉におけるアルバニアの主要代表は、「中国ではもちろん飢饉が見られます。
しかし、中国は私たちが望むものは何でも与えてくれるでしょう、私たちは口を開ければいいだけです
2025/09/01(月) 17:41:58.79ID:lNwNPnm40
東北抗日連合軍は中国共産党に従属しておらず、ソ連が直接指揮している
東北抗日連合の多くが日本軍に降伏した
降伏しなかった残りは盗賊(東北では赤ひげとして知られている)となり、満州国の「併合」政策も
抗日同盟を根絶した重要な理由であり、以後「屯」という言葉は中国東北部の農村地域で地名となった

国民政府は日本の戦犯合計2,357人の日本軍戦犯を逮捕した
149人が死刑 400人以上の日本軍戦犯が無期懲役
中国共産党は日本軍戦犯起訴されたのは45人だけで1000人を起訴免除し、直ち釈放した
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