四向四果だって原始経典には3つで説明されていたりかなり後になって解釈整理されたものでしょ
悟りはひとつでもその悟りがどういうものであるかの解釈の誤解が各派にあるんじゃないかって話でしょ
誰かが悟ったとか阿羅漢だとかの境地に達したり師に認められたとしてもそれは実際には悟りではないかもしれないってこと
仮にそれなりに悟りの段階かもしれなくても四向四果の途中の段階に過ぎないかもしれないってこと