問題があって、その答えを知るために、議論しあって、推論をぶつけ合い
答えに近いものが「論破した」などと言うのは、それはただの、学問ぢゃ

論理的な答えなどないのに、論理的な問題だけがある。その可笑しな状況が「疑」ぢゃ
禅宗の公案禅でも、そのような状況を指摘する言い回しがあるように、そこに気付け

そしてそれに気づくことは、決して知識の習得などではない (-人-)