★富や人心を刺激する欲の教えが聖書に教えに混ざりこみ、御言葉をふさぐ

キリストは御言葉がまかれても、すぐにサタンがきて奪い、世の甘言や、富の惑わし、その他色んな欲をそれに混ぜるため、御言をふさぎ実を結ばなくなると語る。
(マルコ 4:15-19)


★金は信仰を阻害する悪の根

キリストは天に宝を積むよう求め、神と富に同時に仕えることはできないと警告した(マタイ6:19−24)。

パウロも富を求める者は情欲に陥る、金銭を愛することが、あらゆる悪の根であると言い切っている (テモテ 6:9-10)

★所有の放棄が目的ではない。愛の行為が目的だ

富は世の誘惑のひとつであってすべてではない。所有の放棄が自動的に神に対する献身を実現するわけでもないのは事実
実際、青年が去った後、一切を捨ててイエスに従ったはずのペテロが「何がいただけるのでしょうか」と問うたこと(マタイ 19:27)は、問題の本質が別のところにあることを示している。

新約聖書が一貫して強調していることは、貧者を助ける愛の行為である。

施しに入り込む偽善についてのイエスの教え(マタイ 6:2−4)は、自分のために行う施しに対する警鐘を鳴らしている。
終りの日のさばきは、自らも忘れているような憐れみの行為を基準として行われるのである(マタイ 25:31−46)。

パウロも惜しみなく分け与えることを勧め(ローマ 12:8)、そのために堅実に働くよう命じている(エペソ 4:28)。
ヤコブも、孤児や寡婦を助ける
愛の行為を欠いた信仰の空虚さを強調しつつ、食物や着物を提供する具体的な援助を推奨する(ヤコブ 1:26-27、2:14
−17)。
同様にヨハネも、困っている兄弟たちを助けるよう促している( I ヨハネ 3:17−18)。

エルサレム教会では、富者は貧者の支援のために資産を、あくまでも自発的に提供していた(使徒 2:44−45、4:34−35、5:3−4)。

★繁栄の神学と聖書の貧者に対するスタンスの違い

繁栄の神学は貧者の富への欲を煽り、入信のニンジンとする。その行為は、マルコでキリストが語っているように御言葉を塞ぐ行為だ
貧者のために施しを行うことと、貧者の欲を刺激し入信させるのとは180度異なる態度であることは言うまでもない