■ しかし、この世で起こるいろいろな幸せな出来事も、不幸な出来事も、実は神の意志とは関係なく起こっているのだ、と考えたほうがよいのではないでしょうか。私はそう考えることを提案します。

  自分にとって都合のよい出来事を「神の祝福だ」と考えるのは勝手ですが、その裏側には人生の苦難を「神から祝福されていない証拠だ」と考えてしまうという落とし穴があるのです。

苦しかったり、悲しかったりする出来事が起こったとき、「私は神に呪われたのだろうか」、「私の何に神はお怒りになっているのだろうか」という悲観的な思い込みや恐怖に満ちた妄想にとらわれて、かえって自分の精神を追い込んでしまうのです。

  そして、そのストレスがあまりに高まった場合に、うつ病などの疾患を発症することがあるわけです。

  「教会性うつ病」という言葉が一部のクリスチャンたちの間で使われているほど、キリスト教会が原因で心の病になる人は案外多いのです(もちろん「境界性」という用語のパロディです)。

  「心の病気になんかなるはずがない。だって信仰があるんだから」という思い込みこそが、心の健康をそこなう原因になるのです。

  「キリストは栄光の主なる神であり、罪に対する勝利者である」といった具合に、なんでもポジティヴに、なんでも前向きに。信仰が神に認められれば、きっと人生はうまくいくはず
「そうでないとクリスチャンとしての証を立てられませんよ」と追い込まれるような教会の環境だと、敗北者、あるいは疲れた者、悩む者としての自分を受け入れることが困難になるのです。

それはたいへんしんどいことです。自分で自分を受け入れられなくなったとき、病気になっても何の不思議もありません。

  ましてや、「信仰があれば心の病にならない」などと、心の病をかかえている人の前でいうことほど、愛の無い、人を傷つける言葉はありません。無知というのは本当に人を傷つけることがあるのですね。