末法の歴史上の実態について、日本災害史 引用します。
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199204.html
●飢饉
  『日本書記』の欽明天皇の巻に、「郡国大水となり、飢えて人互いに食べる」という記事がある。
 飢餓の原因として干害(ひでり)、冷害、風水害があるが、戦国時代までは干害が最も恐ろしいとされた。
1181年 養和の大飢饉
  前年来の天変続きで、西国は大飢饉に襲われる。死骸は道端にあふれ、餓死する者は数知れない。
仁和寺の僧隆暁は、死者の額に「阿」の字を書いて死者の冥福を祈って回った。
「京都の死者の数四万二千三百人」と鴨長明の『方丈記』のなかに記されている。
『源平盛衰記』によると、天下大変な飢饉となり、人民の多数が死んだ。わずかに生き残った者も土地を捨てて境を出てここかしこに行き、
あるいは妻子を忘れて山野に流浪し、巷にさまよい憂いの声が耳に付くほどである。
その年も暮れ、今年は疫れいが流行し、飢え死しなかった人でも病で死んでいった。
…街頭には死人が多く倒れており、馬車も死人の上を通る有様である。
遺体の臭いが京中に満ちて、道を行く人も大変であった。」
1231年 寛喜の大飢饉
  前年秋の凶作、この年の麦の減収により、飢饉が全国的に広がった。
京都では春頃から餓死者が増え、7月に入ると死人を抱いた通行人があとを絶たず、道路には死骸がみちあふれたという。
このため「天下の人種三分の一失す」と言われた。
鎌倉幕府は、この年の5月、鶴岡八幡宮で国土豊年のための祈とうを行っている。
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1052年を1として1181年は130年後のこととなる。1231年は180年後のことである。

釈迦の予言は、日本においてきちんと実現している。
1052年から180年 60・60・60・ みろくの時の飢饉では、人口の3分の1が失われ、
それは、終末と言う状態であった。