>>350
「イエスは罪の身代わりになった」という言い方をするが、注意が必要です。
本来、罪は人間(民衆)にこそある。
その罪それ自体がイエスに擦り付けられることで、つまりイエスが罪人に堕ちた引き換えとして、
イエスに罪を擦り付けた側の人間が無罪になったと考えるのは明白な誤りです。

何故なら、人間の罪がイエスに擦り付けられて乗り移る原理も理由も、そもそも存在していません。
(ここで神の全能を持ち出すならば、それは論理の飛躍となり思考停止していることになる)
あくまでも罪はイエスの前に向き合って立つ私達一人ひとりの人間の側にある。

イエスは(四福音書で証明されている通り)何の罪もない神の独り子なのです。
罪なきイエスが罪ある者のように(つまり身代わりとなって)、罪の報いとしての裁き(罰)を身に受けた。
ゆえに、我ら罪人が悔い改めてイエスと一体となるなら(つまりイエスを主と仰ぎ見るなら)その人間の罪は贖われる。

その時、イエスは真に、その罪人なる人間の救い主(キリスト)となり、その人はキリストに倣う者となる。
これがパウロの十字架の神学における正しい贖罪論の要なのだと思っています。