沙門果経は 阿闍世王の要望に従い、出家の沙門の果報を説明するわけですが、それは分かりやすく
「戒」「定」「慧」ごとに説明しています。
戒律を実践するとこうなりますよ、禅定を実践するとこうなりますよ、知恵で観察するとこうなりますよということです。
そしてはっきり言うとそれは全て解脱の諸相を示しているとも言えるのです。
占いなどを離れるという戒律を実践しただけでそれだけの解脱は得られているわけですし。
また戒→定→慧という順序でなく、正しくは戒定慧全て合わせて修行していくのです。
決して戒→戒→戒→戒→戒→戒・・・よっしゃ、これでええやろ、ほんじゃ次は、定→定→定→定→定→定→定・・・もうええか?ならば最後に
慧→慧→慧→慧→慧→慧、よっしゃーこれで完成や、
てな お話ではありません。
戒定慧→戒定慧→戒定慧→戒定慧と修行を進めるわけです 。
そして「漸次」解脱を得る。
もっとはっきり言うと戒より先に慧がありますね。
コーンダンニャは釈尊から言葉による教えを 何回か聴いているうちに悟ったわけです。これは慧による解脱です。
さらに修行も進めたでしょう。
これは解脱ということが何をどうすることかということをが理解できれば 分かる話です 。
ところがペテン大作さんは解脱ってどういうことかいと質問すると、彼は絶対に答えません。答えられません。
そして分かりもしないくせに構図だけを示すのです。
だから順序立てて説明しても、それが修行の順序であるというわけではありません。
自他の前世、前前世などを観察していくような知恵は確かに相当に進まないと得られないものでしょう。
しかし四諦の悟りなんてものは我々でも最初から 学ぶものです。言葉によって理解するものです。つまり 慧です。
ペテン大作さんの誤りは解脱というものが何であるかも知らずに、解脱というものは一番最後に得られそれで究極のゴールだと そこしか見ない 点ですね。
だから解脱なんていうものははっきり言うと何度でも得ます。また何度でも転落します。
そのように示した経典もあるのですから。