おそくなり、すみません。 家族の整容やらがありまして。
>>823
>これらの言葉で、人のことは神様に任せて、自分の救いのために邁進すべきだと心が開けた。
> 自分が本当に救われた喜びに満ちているならば、それは自然と他の人に伝搬するはずだ。
(>>613)

☆クリスチャン内世界としては、その心がけがまともな対処だと思います。

罪人ノイローゼは、クリスチャンの頭から離れない、
不自然なありかただし、人の生き方として頭の中が分裂しており
精神がついていけないと思うのです。

かといって、イエスが罪を背負ってくれたので、
もう罪はないというのも、不自然です。

罪がある、もう罪はないといった、この罪に対する、特殊な植え付けそのものが、
健康を害して、異様な目線で人や社会を見るようになるし、
言動も行動も自然な人間性や内的に備わった良心の
発露を妨げる事になると思うのです。

イエス様は、私たちの無知や愛がわからないことによって、
十字架刑になったのですが、

ユダヤ人でないものは、ここから自分たちの悔い改めのスタートであって、
終りではないはずです。
イエス様が言われた、神を愛し、隣人を愛するは、愛されよでないのです。

ユダヤ教の罪人感覚の重圧からのユダヤ人の解放を、
わざわざ持たされ、そこから自由になるような不自然な事をする必要はありません。
不自然なものは、誤魔化しが効かない不自然な歪みをもたらすに決まっていますから。