イエスは、人間にとって一番辛いものは貧しさや病気ではなく、それら貧しさや病気が生む孤独と絶望のほうだと知っておられたのである。
イエスは群衆の求める奇蹟を行えなかった。
湖畔の村々で彼は人々に見棄てられた熱病患者のそばにつきそい、その汗をぬぐわれ、子を失った母親の手を、一夜じっと握っておられたが、奇蹟などはできなかった。そのためにやがて群衆は彼を「無力な男」と呼び、湖畔から去ることを要求した。
だがイエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、彼等を愛する者がいないことだった。
彼等の不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独感と絶望が何時もどす黒く巣くっていた。

必要なのは「愛」であって病気を治す「奇蹟」ではなかった。

人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。
自分の悲しみや苦しみをわかち合い、共に泪をながしてくれる母のような同伴者を必要としている。
神が父のようにきびしい存在ではなく、母のように苦しみをわかちあう方だと信じておられたイエスは、その神の愛を証するためにガリラヤの湖畔で不幸なる人々に会うたびに、それらの人間が神の国では次のようになることを願われたのだ。