「あなたは塵である」と告げられる場所

 四旬節の始まりに、教会は私たちの額に灰を置きながら、こう告げます。
「あなたは塵であり、塵に帰る」(創世記3・19)。
この言葉は、しばしば死の宣告や人間の無力さの確認として受け取られてきました。
しかし、聖書全体を見渡すと、この言葉は単なる終わりの宣言ではありません。
むしろ、それは人間が最初に立っていた場所への呼び戻しです。
 創世記はこう語ります。
「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2・7)。
人間は、最初から完成された存在として造られたのではありません。
塵から形づくられ、神の息によって生かされる存在として始められました。
四旬節において「塵に帰る」と告げられることは、人生の失敗を数え上げることではなく、
神の創造が始まった地点に戻されることを意味しています。

神の前で、たまっていくもの

 もしかすると私たちの中には、知らず知らずのうちに、
神の前で何かを「積み立てて」きた人がいるかもしれません。
ミサに欠かさず与ってきたこと、家族に聖職者や奉献生活者がいること、先祖代々信仰を守ってきた歴史。
教会の位階の中で特別な立場に置かれていること、社会的に大きな責任を担ってきたこと。
神のためにと、多くを犠牲にしてきた年月。
その一つ一つは、確かに尊い歩みですし、軽んじられるものではありません。
 しかし四旬節は、それらを神の前に並べて評価を受ける季節ではありません。
灰の前に立つとき、功績も血筋も役割も誇りも、すべては同じ高さまで削られ、
同じ塵へと戻されます。
神の前に最後まで残るのは、積み上げてきた点数ではなく、肩書きでも履歴でもありません。
ただ、形を失い、支えを手放した私たち自身だけです。
その地点から、神の創造はもう一度始まります。