逆にキリスト者が開悟を得ると、これをただちに神経験として感じることも十分理解できるのである。
それにたいして仏教者にとって、開悟は究極・絶対的現実の経験として感じられる。
それをしめすさらに詳しい名辞や名称やレッテルはないので、「無相」と言ってよいかもしれない。
とにかく疑いなく確実なことは、禅で悟りまたは見性となづけられる経験は、他の宗教にも、たぶんすべての真摯な宗教にも起こるということである。
キリスト教ではそれをしめすために「神との出会い」という名辞があるが、その場合はまったく特殊な意味をもっている。
この「神との出会い」が与えられるひとはだれでも、そのことによって彼の神信仰をいちじるしく強く確固たるものにされた感じがするのである。
(エノミヤ・ラサール[1987 : 91])