いい人とも、信仰が篤いとも、人格者である、頭がいい人と
評価される必要はなく。
周りの人々が、そんな評価をしたとて。
俺は俺、私は私でしかなく。

バカなふりをし、バカと思われた。
事実バカで、バカと思われた。

それがどうしたよ?という話。

もう、どうしようもない。
人の頭の中にできあがる己の印象。それをよくしよう、よく思われたい。
こう思われているであろう、という己を想像し、それが己だと
思って生きる。

これこそが、この土人の国、日本人の生き方、そのものの原液の
スープであり。

キリスト者もそんな仮面を完全に脱ぎ捨てることはできずに
生きていますけれども。社会性という名の下に。
当然、キリスト者として、そんな己に
葛藤と違和感をうっすらと日々感じますよね。

少し心許しながら、キリスト者がキリスト者であるために
僕が僕であるために?勝ち続けなければならない。
勝つとはどんなことが勝つことなのか。そして勝ってどうなるの。
そこで迷いは深くなる。と浜省は「とらわれの貧しい心で」なる
楽曲の中で歌っていますけれども。