当時、私は佐武さんの『行列と行列式』に深く影響されていたから、自分で本を
書くにしても、独自性が出せるかどうか心配だった。たまたまそのころ、計算機学者
と一緒に仕事をする機会があり、そこで私の書いた原稿を厳しく批判された。そのとき、
数値計算をする工学者たちの求めているものがどういうものなのかをはじめて知った。

もっと具体的には、係数行列が正則な n 元 n 立一次方程式の解法である。これには
有名なクラメルの公式がある。ところがこれは数値計算には使えないという。実際、
n が 100 なら 101 個の行列式を計算しなければならない。かわりにガウスの消去法
(行列のことばで言えば基本変形による掃きだし法)を使えば、一個の行列式の計算
とほぼ同程度の計算量ですむ。

私は学校でクラメルの公式しか教わらなかったから、ガウスの消去法はおろか、
基本変形というものも知らなかった。ところがちょっと勉強してみると、これは実
に簡明である。逆行列の計算も同様で、余因子行列( n^2 個ある)を使うよりはる
かに簡単である。私は行列の基本変形による掃きだし法を、単なる計算法として
ではなく、むしろ一次方程式論の基礎づけに使いたいと思い、多少工夫してうまく
成功した。それまで一次方程式論は行列式論のあとにしかできなかったが、私
の本では行列式より前にある。