>>696の続き
明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。
屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人の人口が増加した。
戸籍制度において、アイヌの人々は日本国の「平民」とされるが、
イオマンテや入墨、耳環など、アイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。
1871年には女子の入墨とチセウフイカ(故人を弔うためその家を焼く風習)が禁止される。

同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、
アイヌ語の禁止などは行われなかったものの、
教育が日本語で行われたことでアイヌ語話者は漸減していく。
1875年、地租改正によってアイヌの土地も私有財産と見做されるが、
多くのアイヌは地権という概念に馴染めず、和人にこれを詐取される者が続出し
(貨幣契約経済に馴染めぬ彼らが
「従来の耕地は、焼酎一本、酒一升に依って轉々として人手に渡り」)、
多くが移住を余儀なくされる。
また、乱獲による動物の減少を防ぐためとして伝統的な狩猟、漁撈も制限され、
生活も困窮の一途をたどっていく
(実際、江戸期から交易のためにアイヌによって乱獲されたラッコ[一枚米大俵十]、
ワシ[十箇米小俵二十]は絶滅又は寸前。近代漁法の導入で河川の鮭・鱒は激減)。