高木貞治が、書いている(下記)
「結局四年大学におったが,その間にいろいろな本を読んだのであるが,指導者なしの乱読で,本当に読んだと謂うよりは,図書室にあるだけの本を見境いもなく片っ端からひっ繰り返して見たという程のことであった」
「ウェーバーの「代数学」の第1巻が来ていたので,それを探し出して,ガロアの理論に接したのだが,それが本当に分ったのだかどうだか」

いいんじゃない?
高木貞治先生が、当時何をインプットし どこまで理解していたか? そんなことはだれも問題にしていない
問題は、アウトプットだよ。高木類体論がアウトプットだよ

(参考)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001398/card50907.html
回顧と展望 高木貞治「改造」1941(昭和16)年 青空文庫

大学(東京帝国大学)へ私が学生として来たのは1894年―

当時は相当学風が自由であって,藤沢先生などは,ドイツ仕込みの Lehr-und Lernfreiheit ということを鼓吹されて,なんでもいいから本は勝手に読め,そんなことを奨励されていたものだから,いろいろのものを読んだわけである.殊に三年になると,菊池先生が文部省の方に行って了われたものであるからして,藤沢先生御一人になって,講義の時間が非常に少なくなった.今はそうでもないけれども,一時はずいぶん沢山詰め込み主義の時代もあった.そういう時代に比べると,大分自由であったと謂いえる.それで,後の二年間は全く自由に暮して,最後の一年は大学院で,結局四年大学におったが,その間にいろいろな本を読んだのであるが,指導者なしの乱読で,本当に読んだと謂うよりは,図書室にあるだけの本を見境いもなく片っ端からひっ繰り返して見たという程のことであった.
 それからまあそんな風にいうと,いかにも不完全なようであり,事実不完全に相違ないけれども,藤沢先生はベルリンでクロネッカーの講義を聴かれたらしいのであって,代数を大学へ入れなくてはならぬということを絶えず言っていられたのであるが,当時日本では,代数は中学校でもう卒業してしまったもののように考えられていた.そこでその後セミナリが出来てからは,そういう処で頻りに代数の問題を与えられた.当時代数といえばセレーの「高等代数」で,それによって,私はアーベル方程式を読めと言われ,そこで謂わゆる高等代数の洗礼を受けたわけである.しかし,その当時,已すでに書棚の隅っこに,ウェーバーの「代数学」の第1巻が来ていたので,それを探し出して,ガロアの理論に接したのだが,それが本当に分ったのだかどうだか.その後,段々いろいろ新しいものが来るようになって,ウェーバー第2巻も軈やがて来た.

その中に1898年になって,私はドイツへ留学を命ぜられてベルリンへまいることになりました.それは明治31年で