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>趙治勲が交通事故に遭って

それ、今日の記事ですね
図書館で、読んできます
小林 光一さん、木谷先生の娘の小林禮子さんと結婚され
その娘の小林泉美さんが、張栩さんと結婚され、孫が張心澄さん
心澄は、こすみ=コスミで囲碁用語です

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD19AMZ0Z10C24A4000000/
趙治勲 私の履歴書(17)交通事故 囲碁棋士20240518
ボクが名誉名人の資格を得た1984年以降、急速に台頭してきたのが小林光一さんだった。入門はこちらが先、入段は向こうが先。「抜きつ抜かれつ」の時代を経て、タイトル戦線ではボクの方がだいぶ先行していたが、84年の十段獲得を機に上昇気流に乗り、85年、ついに名人戦の挑戦者に名乗りをあげた
「嫌なヤツが来た」というのが第一印象。真面目過ぎる性格も好きじゃなかったが、棋風の方も、自分からはあまり仕掛けて...

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%85%89%E4%B8%80
小林 光一(1952年9月10日-)は、囲碁のプロ棋士。名誉棋聖、名誉名人、北海道旭川市出身。東京都在住。前妻の小林禮子(1996年逝去)との間に一男一女、後妻との間にも子どもがいる
長女小林泉美、娘婿の張栩、孫の張心澄、張心治もプロの囲碁棋士
門下に河野臨、大矢浩一、酒井真樹、大木啓司、金澤秀男、桑原陽子、穂坂繭がいる
来歴
1963年、木谷實が弟子の加藤正夫(この時は初段)・佐藤昌晴・宮沢吾朗(共に現九段)・伊藤明雄を連れて旭川に来た際、地方棋士の早勢勝美の紹介で木谷と会う。この頃小林は道内の大会で優勝し、天才少年と新聞などにとりあげられていた。宮沢に4子、伊藤に2子で打ってもらい木谷道場への入門が許された。しかしこの数ヶ月後、木谷は二度目の脳溢血で倒れた。脳溢血は2回目は回復しない場合が多く危険な状態だった。こんな中でなぜ弟子にしてくれたのか木谷の4女に後年聞くと自分の具合が悪く現役の棋士としてはもう無理なので最後のひと頑張りで弟子を育てようとしたという
1965年 四谷木谷道場に入門。内弟子になった最初の日に、腰におもちゃのピストルをぶら下げた子供が部屋や廊下あたりを走り回っていた。小林は近所の子が紛れ込んだと思っていたが、これが当時8歳でのちにタイトル戦でライバルとなる趙治勲(後の二十五世本因坊治勲)だった[1]。旭川代表になるまでの実力だった小林だが、入門してすぐ佐藤昌晴に3子で負かされ、天狗の鼻を折られた。さらに定先くらいの手合で1、2歳年上の小林より8歳の趙治勲のほうが強いことに小林はショックをうけた。道場では趙治勲と同じ部屋に住んだ。内弟子時代には加藤正夫(現名誉王座)によく打ってもらった

https://www.asahi.com/articles/ASN285F8XN26UCVL03B.html
朝日新聞 大出公二20200208
親子4代でプロ棋士が誕生 13歳の張心澄さん
 囲碁の前名人、張栩(ちょうう)九段(40)の長女、中学2年の心澄(こすみ)さん(13)が8日、日本棋院の棋士採用試験に合格し、プロ入りを決めた。曽祖父は「大木谷」とうたわれた故・木谷実九段、祖父は小林光一名誉名人(67)など、囲碁史に名を残す棋士ファミリーだ。親子4代続く棋士の誕生は、日本棋院の所属では初めて

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%9F
コスミは囲碁用語のひとつで、すでにある自分の石から斜め隣に打つ手のこと