つづき

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その数学的証明が存在すれば,(その証明が正しいものであるかぎり)対応するL∈-論理式φの(形式的体系での)ZFCからの証明が存在する!
ZFCをこのような形式的体系として認識し研究する分野はとくに公理的集合論とよばれる.
これに対し,1.1で述べたような記述により形式的体系を意識せずに議論を行うことを素朴集合論とよぶことがある.
集合論の古典的な結果の多くは,素朴集合論的立場からでも十分に理解可能である.
例えば次の第2章で述べることがらのほとんどは,この立場で理解可能である.
一方,第4章で述べることになる構成的集合の理論や強制法の理論の正確な記述や理解には,1階の論理による集合論の公理化が必要不可欠である.

公理的集合論による数学の形式化に対する一般的な注意を,もう一言だけ述べておきたい.
「全数学は公理的集合論の形式的体系の中に埋め込める」という主張は,一部の数学者にとって,「人間の祖先は猿だった」という主張に対してかつてのヨーロッパの多くの人々が感じたと思われるものと同種の不快感を呼び起こさせるもののようである.
「数学」という言葉を聞いただけで不快感を募らせる人々も多数いる(らしい)という現実を思い出せば,このこと自体,何ら不思議でないのかもしれないが,
単純な誤解がこの不快感の原因になっている場合も多いように思える.
つまり,「全数学は公理的集合論の形式的体系の中に埋め込める」という主張が,「全数学は公理的集合論の形式的体系の中での記号操作として行われなくてはいけない」という主張ととり違えられてしまっていることが少なくないのではないかと思うのである.
しかし,「全数学は公理的集合論の形式的体系の中に埋め込める」という事実の指摘は,
「出来上がった数学を(必要なら)そのような体系の中に形式的に記述でき,そのことにより,数学理論の整合性(の度合)などを客観的に議論できるようになる」,ということを言っているにすぎず,
数学者がこの体系での記述のように考えなくてはいけないということを意味しているものでは全くないのである.

逆に,形式的体系の厳密性に魅力を感じる読者の中には,以下の議論が厳密な形式的記述によってなされていないことに不満を感じる者もあるかもしれない.
集合論では,形式的体系の記述能力の限界ぎりぎりのアクロバットを行なうことも多いので,
口語的な表現で述べられた議論が実際に体系の中で展開できることを入念に確かめることが是非とも必要となる場合も多い.
しかし,数学は機械のためにあるのではなく,我々の「考える脳」のためのものなのであるから,
直観的な把握と形式的記述の間を自由に行き来してファンタジーの飛翔がうながされるような理解の仕方を工夫することは非常に重要である.
この点に関して,集合論研究における研究者の思考の生理学は,他の数学の分野におけるそれと全く同様である.
以下長いので略す
(引用終り)
以上