>>838
>第1節 マッカーサー・ノート

『第2節 象徴天皇
実は、ヤルタ会談の合意で、日本はドイツ同様分割統治されることになっていましたが、アメリカはそれを無視、マッカーサーに日本統治を任せていました。しかし極東委員会議で日本の占領政策が話し合われることとなり、急遽、憲法を作ることとなりました。極東委員会議は、ソ連・中国・イギリス・フィリピン・オーストラリアいずれも天皇処刑派であり、アメリカ国務省の中にも天皇を処刑せよという意見が優勢であり、「天皇を廃止すれば占領政策は失敗する」と考えていたマッカーサーとトルーマンは急いだのです。
アメリカの憲法草案を日本の国会議員に渡す時「この草案が受け入れられなければ天皇の地位は保証できない」と通告しました。脅迫です。そして、ほぼそのまま日本の憲法となったということです』

下記 昭和天皇・マッカーサー会見
「マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、その後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった」
マッカーサーは、なんとか天皇制を形式的にでも残そうとした
そして、昭和天皇の存在が結果として、日本の戦後復興に大きな貢献をしたことも また事実
昭和天皇の人間としての大きさが 感じられるエピソードであり
皇室の存在意義
ワケワカ養子を連れてきて、その役目が務まるのか?

(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%BC%9A%E8%A6%8B
昭和天皇・マッカーサー会見
1945年(昭和20年)9月から1951年(昭和26年)4月まで、全11回にわたり行われた
特に、第1回の会見における内容や、昭和天皇の戦争責任論を含む日本の戦後処理への影響に関しては、今尚議論の対象となっている
第1回会見
『マッカーサー回想記』によれば、会見の冒頭で[注釈 3]天皇はマッカーサーに勧められた米国製煙草を吸う屈辱[注釈 4]と緊張の中、次のように発言したとされる
「私は、国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」
さらに、皇室財産を担保に国民の衣食住の保証を願い出た。 そして同回想記によれば、天皇を「戦争犯罪人」として起訴せよという米国内及び国際世論の中、このような発言をした天皇に対し、マッカーサーは次のような感想を抱いた

私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした
天皇発言に感動したマッカーサーは、天皇への呼びかけを「You(あなた)」から「Your Majesty(陛下)」に改めた、と松平康昌が田中隆吉に伝えた

マッカーサーは様々な手段によって、「天皇は戦争に反対していた」「天皇は世論や軍部に抵抗できなかった」「反対したらクーデターが起きていた」というイメージを、天皇発言を引用する形で内外に広めていったと考えられている
双方の努力によって同裁判への昭和天皇の出廷を阻止させ、法廷闘争においても成果をあげた