>>417
うーん、触っちゃいけないパンドラの箱だったのかな。

逆に色を、物質的現象と言うので正しいとするなら、五蘊がそれを扱うには先ず色から始まる訳で
それって境(つまり庭前の柏樹)を起点に考えてしまう訳なんだよ。
経典の題名は摩訶般若波羅蜜多「心」経なので、境で何が起ろうと、それを心がどう捉えるのかを問題にしてる経典なんだよね。
般若波羅蜜多心だとプラジュニャーパーラミターフリダヤだから般若の核心なんだろうけど、それでもそれを知ろうとするのはチッタたる心、
その心が捉えると言う実感は解ってるから、般若波羅蜜多を深く行じたら、それは五蘊で空(固定された本体の様なのは無かった)だったと観音さんは述べてる訳で。
始まりから心で結論も般若波羅蜜多心でなきゃ経典が矛盾しちゃうんだよ。
こうなると、唯識とも符合しなくなって三界唯心も唯識無境も通らなくなる。
外界に事物が有るのか否か、その外界の事を云々してないのに、博士は外界起点にしてしまってるんだよね。
物質的ともし言いたいなら、例えば眼の場合は眼球が物質になるけど、色と言う場合はその眼球に備わる機能の方を言うんだろと。
眼球が受像出来得る機能それ自体、これが眼で言う色なんだろと。
通常はいつも通り機能出来てるから、人情としてはそこは高速でスルーされてる。
だから般若波羅蜜多の行、つまり知りたかったら坐禅なんだろと、思うんだけどねえ。