暇人さんとの件について、以下の論文を参照に再考査してみたので改めて結論を提示するけど…

参照論文
  『瑜伽論』の空性説-『小空経』との関連において- 向井 亮
  https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/22/2/22_2_900/_pdf/-char/ja

争点(暇人さんの主張)
  >一切皆空ではなくて、いのちのあるものを縁として現象しているこの我々の身体は空ではないそうだ。(前スレ>>569)

  >この身体によって眼耳鼻舌身意を持つ人間は、あるので空ではないということだ一切皆空ならぬ、人有だ。(前スレ>>611)

論文より
  > 『喩伽論』 の所説は、「乙は空なり」と言うときの乙を 「有」と規定して強調するところに特色がある。
  >そして、その乙までも「無」であると執するのは、虚無論者(eoritoerit)であり、悪しく解された空性 (roteiport)を説く者であると厳しく批難 している

  >ここで注意すべき は、『小空経』 でもつねに空性の相が、無ばかりでなく有としても把握されている ことである。


つまり、小空経の視座はあくまでも従来通りの人空の立場(空性)であり、相としては、悪空論を排他するために有の立場をとっているという事。
したがって当該箇所は、相としては有、つまり、現象としては現れて存在している(=在る)が、あくまでも空性の相として仮に現れた有(=仮有)であるという事であって、人有ではない。