>>65
聖書のイエスの全否定だったら、教授はどうやってゲッセマネ以降のイエスに
「その後の運動を決定づけた姿」を見られるの?
その後の運動とは原始キリスト教(あるいは初期キリスト教)の成立過程以外にはないでしょ?
イエスに関しては基本的に4福音書以外その生涯について書かれたものはないんだから
教授が準拠しているイエス像はあくまでも4福音書から得られたものでしょ?

> キリスト教の公理なるものにとどまる君の思考とは異なり

いい加減、何度も言わせないでくれw
なんでこんな簡単なことが理解できないのかw

キリスト教を肯定するにせよ否定するにせよ、まずは議論の出発点として
キリスト教とは如何なる教えを奉じる宗教か、ということが定義できなければ
そもそも肯定も否定もできないでしょ?
俺が言ってるキリスト教の公理とは伝統的なキリスト教に共有されている、
キリスト教の神学体系、あるいはもっと漠然とキリスト教の世界観を
導き出すための最も基本的な前提のこと

> イエスの「生命(肉体)を忘れた精神性」

福音書で伝えられているイエスの言葉には肉と霊を対立させて霊を取ることばはあるよ
でもそれと同時にイエスの活動は社会的に排除された人たちと交わり、肉体的な病の人たちに触れる
活動でもあった(軌跡がどうこうとかいうことじゃない)
そもそも隣人愛とは具体的この世の現実の中で具体的な肉体をもった人に対する
接し方を説いているものでしょ?
ご隠居はそういった側面をすべて切り捨ててしまう
イエスの言動が、肉体などどーでもいいというものであったら
隣人愛など強調する必要など全くない

> キリスト教も、全人類から見れば、その一グループに
> 過ぎない。人類にとっては、普遍でも何でもない。

いったい誰と戦っているのかw
クリスチャンは信仰上、当然キリスト教を普遍的なものと当然主張しているが
俺はそんなこと一度だって主張したことはない