>>359
コズモさん、ありがとう。そのような事、気になさらずにいてください。

>神を第一に愛するとは人を縛ったり、不自由にするためでなく、
>人の霊性を神の霊の近くにまで高めたいとする、望みなのです。
>神道では禊により、仏教では座禅により、
>やはり人の霊性を高めようとします。

>どの道においても求められるのは、
>神の霊の近くまで人の霊性を高めてほしいとの願い、
>つまり、神を第一に愛する、という言葉に集約されるのです。

そうなのですよ。 でも私が言ってきたことは、
神の中身は、イエスの隣人愛という具体なわけです。
ですから、具体の現象化としてイエスは受肉する必要があったのです。

神第一は、ユダヤ教もしていたのです。
それでは、だめであったのです。
神第一の内容をしっかり届け、それを私たちが理解していないと
イエスは無駄になります。
今までのキリスト教が、そちらを前面に押し出すような事が出来ていなかったのでは
ないかと、そして今も出来ていないから、カルト脳を量産しているのではないかと
思い、私は述べています。

罪はなくなった、恩寵だ、天国行きだ、選民だ ではなく、
聖書箇所でも取り上げる重要ポイントの方の頻度が低くかったのではないかと。
なので、傲慢と偏見が平気になったのではないかと思うのです。

異邦人の方が、自分達より善い=たとえばインディアンの方が知っている

善きサマリア人の話や、ベタニアでイエスに高価な香油を惜しみなく
イエスの頭から、全身に流れるようにしてかけた人の積極的で観念でない愛の話を
もっと大事にしなければ、ならないのではないか。

それに気付けなければ、キリスト教は、またもや2000年を繰り返すと
思うからでした。