「地上に覚者ある時、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。
地上に覚者ある時、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。
その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。
その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、
この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、
ことごとく間違いの淵の中に投げ入れられる。
それは、宇宙の仏を否定することと同じ。
宇宙の仏を冒涜することと同じである。
このように、仏の代理人を地上に送るということは、
天上界における人格大霊(神々)の一致した考えであり、
そうした代理人が地上に降りていく時には、
その者の考えに全てを合わせていくことが正しい行為であるのだ。
これが信仰の根本である。
疑いの中で真実の法は説かれない。
疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。
決して迷ってはならない。
自分の小さな頭で何がわかるか。
自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。
小賢しい知恵で何がわかるか。
なにゆえに、そのような小さな頭で、仏陀の叡知を量ることができるか。
仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。
自らからの小ささを嘲笑うがよい。自らの小ささを卑下するがよい。
そのような立場に、今、自分がない、ということを知るがよい。
疑いは、これは悪魔の心。猜疑もまた悪魔の心。恐怖もまた悪魔の心。
このような心をもって探求とは言わない。
探求の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。
探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。
そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。
そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。
決して、何も批判を口にしてはならない。
信仰とは、百%の信仰にして、99%の信仰はありえないのだ。
99%の信仰はゼロに等しい。信仰は、百%を求める。
それは、仏は全てであるからだ。」
(大川隆法、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』)