さて、禅定とは何か?何故禅定による解脱を『心解脱』と言ったのか?ですが

禅定とは、九次第禅定のことで、それは『心』の各段階を、九つの禅定によって、順次に究めて行くことと説かれています

最初、欲世間から心が離れ、次に思い・思考から心が離れます、
ここ迄が『色界禅定』で、 『色・受・想・行・識』の『色』が滅された段階です

次に、『無色界禅定』とは、純粋に『心』の内容のみを対象として為される禅定と説かれています

ですが一つ前の『色界第四禅定』も色界を滅亡しているので、この段階から神通力が発現するとされていて、この第四禅定からが、純粋な『心』のようです

無色界禅定は、心の『想』と『相』を対象とします、最初が『心は無辺の空間』と知り、次いで心は『無辺の識』と知ります

更に3つ目が、心は『何物も所有し無い』とみます、4つには『想うのでも思わないのでも無い』心と訳されていますが

経典の各所に、最終段階の滅尽定の前に『無相定』と云う禅定が説かれていて、では滅尽定の前は『無想』なのか『無相』なのか?となります

私の解釈では、無色界での『想い』は、色界の言葉の『思い』では無くて『イメージ』の『想い』ではないのか?と、であれば無辺の宇宙空間ですら『心』に容れられるます、それは映像でもあります、っでその想は相に同じであると

ですから第八禅定、無色界の四番目が『非想非非想定』になっているのは、心の内容が、無いのでも無いと云うことでも無い、と、内容を『相』に、置き換えれば、次に来るのは完全な『無相』の禅定であって

心が対象を、完全に受けつけない『滅受』なので、『滅受想定』または『想受滅』とされ、つまり心の対象が滅尽した『滅尽定』が同じく説かれています

よって、『識』が起こらない訳です、受の段階が滅したら、続く『相と行』は起こりませんし、心の対象が無いのですから、心が何かを『識』することも無いのです