>>74

滅する心とは、今生の生活と言語の日常訓練で構築されてきた、命を持たない機械的な、縁に反応しながら常に動き続けている部分なので

経典で本心と言われる、本性(自性)は、上記の心を常に包容して受動的に存在するこころで、上記の心が仮に滅しても、その時こそ全面的にこの身体の主体として、在り

一旦滅した後に再度構築された心が生じても、時に主体を心に譲ることが一時的にあっても、その縁が過ぎると、自然に再び主体に戻り、以降永続的にはその主体の座は心には無く、本心がその任につき続ける

最終的な解脱って
パーリー仏典によれば、何らかの事象を一つでも喜び、喜びであるが故に、何度もそれを欲するなら、それはいずれ苦となってしまうので、心の完全な滅尽には赴かず、最終的な解脱には至らないとあります、だから一切の欲の滅、つまり一切の煩悩障が滅しないと、実際心の滅尽は、いくら坐禅してもどうにもならない

よって、私の先に言った心の滅は、上記のようなことを指しますが、仏典に書かれている、心の滅尽が同じかどうかは、まだ定かでは無いです、だから禅の言う悟りも、菩提達磨の無心と臨済の真人が同じかどうかは、一切の欲煩悩が滅してみないことには、何とも分からないです