>>449
とにかく大川によるそれは初めから終いまで「方便の時代」のまんまだったわけだから。

…ま、その方便(仮の教え)なるものも種々の段階が有るわけなので、「あれは方便です」ということで、
わけなく前言を翻すことが出来るわけながら、遂に彼から「仏陀の本懐」なるものを引き出せるにはまだまだだったということで、そういった意味からも仏弟子だか大川弟子だかの”モタモタした成人ぶり”を本心から悔やむところから始めるのが本筋。

信者さん各位としては、遂に引き出せなかった「仏陀の本懐」がいずこに有りや? という命題でもって今後は取り組んでいく必要性がありそう。

ちなみに天理さんの場合も残念ながら、おやさま(中山みき教祖)の本懐を引き出すまでに信者さん各位が”成人する”に至らなかったことから、「学び雛形(仮の天理教の状態)」という途上の段階で教えが中断している状態。

但し、飯降伊蔵(いぶりいぞう)本席を通して、みきさん没後も20年間に亘って「おさしづ」という形で、天理教の教えは降ろされ続けてもいる。