さて、監獄から帰った秀司の態度は、
> 秀司の言葉として「皆が寄って来てくれるは誠に忝(かたじけな)いけれども、このように色々心配しても、どうしても警察の権利で苦しめられるから、
> もうこれからは小始末(こじまつ)するほどに、皆もなるだけ来んようにしてくれるよう」
という態度の一方で、信仰組織づくりに奔走していた事実を見ておくべきでしょう。
講を、各信者組織として、まとめさせていったと言うことです。

http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_56.htm
【講の結成】(1878年)(明治11年)(教祖81才)
 1878年(明治11年)4月頃、秀司を講元として「真明講」が結ばれる。
世話人は、仲田儀三郎、辻忠作、松尾市兵衛、中尾休治郎ら。この頃から金米糖を御供えとして渡す。

 この頃、教祖の行為は村にとって迷惑だから、「天理さんを止めてもらいたい」と中山家に申し入れが為されている。
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こんな風に、れんだいこさんは、まとめています。
上↑「この頃から金米糖を御供えとして渡す。」は、「御供え」では無く、「御供・ごく」です。