>>81 追加

下記『ヴァレリーにとって、理解するということは、その対象を作る力をもつということだった。
そのような力をあらゆる分野でもつことは、人間の精神に根源的な影響をおよぼすのではないだろうか。
人間のあらゆる活動を、計算可能な操作に置き換えたとき、それでも人間にしかできないことは残されるのだろうか。
このヴァレリーの問いは現代性を失っていないように思われる』
特に、”人間のあらゆる活動を、計算可能な操作に置き換えたとき、それでも人間にしかできないことは残されるのだろうか”
AI時代に、この問いの意味は深い

(参考)
www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/E_00074.html
東京大学教員の著作を著者自らが語る広場
(文学部 教授 塚本 昌則 2019)
書籍 ヴァレリーにおける詩と芸術
著者 三浦 信孝、塚本 昌則 (編)
20180830 水声社

ヴァレリーという作家をご存じだろうか。かつて小林秀雄、吉田健一、石川淳などの作家が、新たな批評言語を日本語のうちに創りだそうとしたとき、さかんに参照したフランスの詩人・批評家である。批評をその場かぎりの印象にとどめず、ひとつの「方法」として磨きあげるためにはどうすればいいのか。そんな疑問に応えるために、さまざまな作家たちがヴァレリーの言葉を血肉化しようとした。というのも、このフランス作家は、ものを作る過程を、どこまで明確に意識できるかという問いを、生涯を賭けて追究した作家だからである

詩が問題となるとき、ヴァレリーは一篇の詩を書くこと以上に、一篇の詩を作る方法を明確にしようとした。どのような詩もその方法を実践したひとつの見本にすぎなくなるような、そんなメカニズムを見出そうとしたのである。規則や形式は詩の形成にどこまで寄与しているのか、いったいどんな偶然が必要なのか、そもそも詩は何を目指して書かれるのか。ヴァレリーの問いは果てしなく、問いの対象も狭い意味での詩をはるかに超え、作ることに関わるあらゆる分野におよんでゆく

作品を作ることではなく、作品制作を可能にする方法を明らかにしようとするこの試みを、ヴァレリーは「制作学」poïétiqueと呼んだ。「詩学」poétiqueのギリシア語語源poïein (作る) を際立たせた造語である。「詩学」はヴァレリーによって、一篇の詩を書くための規則の集成ではなく、精神がものを作ろうとするとき、そこで実行される複雑な操作を見極めようとする「制作学」となった。重要なのは、ここで言う詩が、芸術のさまざまな現れに共通する、作るという行為という意味に定義し直されたことであり、この視点から、詩に関する考察をそのまま芸術全般──絵画、建築、音楽、舞踏、演劇、写真、映画等々──に関する考察にまで押し広げることができるということである

制作の過程をひとはどこまで意識化できるのか、そしてその意識の極限に到達すれば、いったい何が起こるのかという疑問がそこでは追究されている。ヴァレリーにとって、理解するということは、その対象を作る力をもつということだった。そのような力をあらゆる分野でもつことは、人間の精神に根源的な影響をおよぼすのではないだろうか。人間のあらゆる活動を、計算可能な操作に置き換えたとき、それでも人間にしかできないことは残されるのだろうか。このヴァレリーの問いは現代性を失っていないように思われる