ちなみに最初にその事をオレに気づかせてくれたのはサイエンス社の「記号論理学入門」とかいう本だったかな?当時はまだ勉強したてでその本の理論体系の定義が「公理とモデルの組みを論理体系と呼ぶ」みたいな書き方されてた。で、なんでやと、モデルなんぞあってもなくても証明なんか公理と推論規則しかないんやから意味論なんか何も意味ないやろ、何でそんなものを「論理体系」を構成する上での必須要素にするんやろとめちゃくちゃ悩んだわな。
もちろん答えなんぞない。しかし同様のテーマを扱ったべつの資料でもモデルの組みまで考えて「議論を始めるための必須要素」としてるものが多数あった。竹内先生の証明論とかでもそうやったかな?ともかくある一つの意味論キチンと抱えて議論中に「真である、偽である」に意味づけしてくれているものを与えられて初めて論理体系と呼ぶのが普通なんやなと、でなければ世に出てる数学者の用いる言葉使い、証明の文章を正しく抽象化する事はできんのやなとやっと理解できた。
コレは基礎論ならいたての人間が陥るミス「所詮証明が全てなんだから意味論なんぞあってもなくてもどうでもいい」という迷路に迷い込むのを防いでくれたし、そして確かにそれがなけりゃ、おおよそ世に蔓延るほとんどの証明の文章をまともに抽象化できんわなと痛感させられた
まぁモデルも固定なとしなくていい、議論中に「真、偽」という用語が出てくる論文はでたらめというならそう言う論文は研究対象に入れないというならすきにすればいいとは思うけどな。