>>159
>仮に「無限回の操作」が認められているとしたら・・

君は、ものを知らないね
上記は、公理の中の話だろ?ww

”ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である”
”数学の研究もまた帰納というべきであり演繹は手段である”by 高木貞治(下記)

公理的集合論が構築されたのは、20世紀初等の 1900年から1930年に入るまでだったと思うが
それ以前の 19世紀においても、無限集合論はあったのだ
カントールとデデキントだ

ラッセルのパラドックスが出て、その解決というか 回避のために
集合論の公理化が提案された

あたかもユークリッド幾何から平面幾何が出来たのでなく
話は逆で、平面幾何があって ユークリッド幾何ができたのだった

同様に、人は”無限の概念”を ずっと ずっと以前に既に得ていたから
そこから、無限公理を作ったってことよ(^^

>>156-157で例示したのは、コルモゴロフの確率論(1933年>>158)の前に
集合論の公理化によって ”無限の概念”の問題は、解決されていたってこと

(参考)
https://www.vrp-p.jp/acpedia/4775/
ACPEDIA
コラム 2024 1111
数学は自然科学か(その2)
5.高木貞治氏の御言葉
恩師の恩師に当たる高木貞治氏の『近世数学史談』からの御言葉を引用します。
“ガウスが進んだ道は即ち数学の進む道である。その道は帰納的である。特殊から一般へ!それが標語である。数学が演繹的であるというが、それは既成数学の修行にのみ通用するのである。自然科学に於ても一つの学説が出来てしまえば、その学説に基づいて演繹をする。しかし論理は当り前なのだから、演繹のみから新しい物は何も出て来ないのが当り前であろう。若しも学問が演繹のみにたよるならば、その学問は小さな環の上を永遠に周期的に廻転する外はないであろう。我々は空虚なる一般論に捉われないで、帰納の一途に精進すべきではあるまいか”
https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~tshun/20231014s.pdf

https://mathsoc.jp/publication/tushin/0303/hasegawa3-3.pdf
数学通信 3(3)1998
書評
高木貞治著「近世数学史談・数学雑談」復刻版・合本
共立出版 1996年 長谷川浩司、東北大学理学研究科
近世数学史談
さらに重要なのは、数学の研究とは何であるかについて、高校程度の最小限の予備知識
で可能なかぎり示されていることであろう。(しかも御丁寧なことに、主な登場人物たち
は彼らと同じ年代で活躍をはじめる。)数学は止ってはいないとはいっても、実際には一
体何をしているのか?というのが、数学科の学生であってもなかなか得心できず、また伝
えるにも難しいところである。用語をならべても、また絵を書いてみたりしても、なかな
か真意は伝わらない。数学の研究もまた帰納というべきであり演繹は手段である、と言い
はするが、その好例はなかなか示しうるところにないように思う。数学において、知りた
いと思う目標がいかにありうるか、それをこの本では初学者の目にもあきらかにしてくれ
る。ガウスの驚異的能力を知らしめる算術幾何平均の項、そしてアーベルの明解を味わえ
る「初発の楕円函数論」の項などである