>>605
>>●実業出身
>●高等学院を知らない関西人か

全く知らない(^^
自慢じゃないが
知っているのは 王貞治 w実業のみです(下記)w

(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%B2%9E%E6%B2%BB
王 貞治(おう さだはる、ワン・チェンジー、ウェード式: Wang Chen-chih、1940年〈昭和15年/民国29年〉5月20日[注釈 1] - )は、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区本所)出身の元プロ野球選手

経歴
生まれ
東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)で、中華民国籍の王仕福(中国語版)(1901年 - 1985年、浙江省青田県出身[19]、1922年渡日)、日本人の王登美(1901年 - 2010年、富山県富山市出身[20]、旧姓:當住)の次男として出生。

1940年5月10日に二卵性双生児の弟として出生した[21]が、戸籍上の出生日は5月20日[21]である。両親が「この子は長く持ちそうにない」と出生届の提出を見合わせていたため、実際の出生日と戸籍上の出生日が異なることを、自著『もっと遠くへ〜私の履歴書〜』で王自身が説明している。出産時には仮死状態であり、その後も病弱で両親も随分心配したという[22]。「3つの歳まで立つことすらおぼつかず、4歳でやっと丈夫になれた[23]」と本人が述べている。

6人兄弟の次男である。長兄は鉄城、長姉は幸江、次姉は順子、同じ日に生まれた双子の姉は廣子(1歳3か月で死去)。末妹の佳子は数か月で死去したため、末っ子として育てられた[24]。太平洋戦争中の一時期、王一家は母親の旧姓「當住」を名乗っていたこともあったという。

本格的に野球を始めたのは兄の鉄城が慶應義塾大学医学部に入学し野球部に入ったことで、その兄に連れられて野球部の合宿に行ったことから、小学校4年生でクラス仲間とチームを作った。

中学生でありながら身長176cmと長身だった王を見て、荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えると、その野球チームは高校生を含めた社会人チームであり、周囲の大人と大差ない体格をしていたので、荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあw大学(荒川の母校)はどうかな?」と勧めると、王が「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と答えたため、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたという。

のちに王は、「荒川さんによれば、最初の右の2打席はとても見られたものでなく、左打ちを薦めたのは私が左で投げていたからで深い意味はなかったそうだが、これが私の人生の転機になったことは間違いない」と著書で述べている[29]。

やがて高校進学を迎えて、将来は技師にという父が望む未来が頭にあり、勉学に励むつもりであった。この時には「荒川さんがいたw実業野球部に入り、その後ジャイアンツに入り、やがて荒川さんに再会することなど夢にも思わなかった[30]」とのことである。